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ラーマクリシュナ(3)

― 空のうた ―

第3章


「マインド(心)はミルクであり、世間は水のようなものだ。
もしマインドを世間のなかにおけば、ミルクと水は混じりあってしまう。 だが、静かなところにミルクを保存すれば、それはヨ−グルトになり、 それをかきまぜるとバタ−ができる。
同様に、精神的修行をとおして、マインドというミルクから、叡知というバタ−を作るのだ。 そうすれば、そのバタ−は世間という水のなかでも、たやすく保存できる。
それは世間と混じりあわない。 叡智は、俗世の水の上に汚されることなくうかぶ」
                             ラ−マクリシュナ


ガダダ−ルはカルカッタにやってきて、兄の仕事を手伝いはじめる。いろいろな家庭に行って、神への祈りをささげるのもまた彼の仕事のひとつだった。家々をまわって祈りをささげ、学校の雑用をかたずけ、あちこちの寺院を見てまわり、ガンジス河で沐浴する。街のなかを歩いているだけで、彼は楽しかった。一日があっというまに過ぎていった。
カルカッタは、インドを旅する者にとっても一種特別な街である。デリ−やボンベイとはなにかがちがう。街は混沌として、人はしたたかで、いまだにインドで唯一人力車が走っている。雨期に行こうものなら、雨が降るとすぐに街中水浸しになり、リキシャのおやじはここぞとばかりに値段をふっかけてくる。道端にある公衆便所を横目に見ながら、膝までつかって歩くか、この法外な値段を少しまけさせてリキシャに乗るか、ウ−ンとうなりながら考えこむ私のよこで、リキシャのおやじは平然とヨギのような顔つきで立っている。私はこの街が大好きだ。(写真上、ニューマーケット。 下は、その前のチャイ屋。ここのチャイがカルカッタ一おいしい)
余談だが、その後、私は一年ほどニュ−ヨ−クに住んだことがある。最初の六ヵ月ほどはマンハッタンの安宿に住んでいたが、 その後マジソン・アベニュ−の129ストリ−トに移った。そこはブラック・ハ−レムと呼ばれる黒人街だった。私がはじめてハ−レムを訪れたとき、最初に浮かんだ考えが、「ここはカルカッタに似ている」というものだった。私は秋から冬にかけて、友人たちとハ−レムのアパ−トに住み、毎日の日常を驚き、楽しんだ。ハ−レムでの日常は、私のなかの非日常感覚であった。だから、あらゆる小さなできごとが刺激に満ちていた。
だが、物語はカルカッタである。
ラムクマ−ルは彼が落ち着くのを待って、どこかの学校にでも通わせるつもりだった。
「将来のことを考えて、なにか学んだらどうだ?」
と、あるとき、ラムクマ−ルが言った。
「なにを学ぶんだい、兄さん?」
「工学技術でも、会計学でも、いろいろある」
「学んでなにが得られる?」
ガダダ−ルは、あまり興味がなさそうだ。
「生きるのにパンとバタ−がいるだろう?」
「そんなものは意味がない。それより僕は、ほんとうに満足させるような永遠の叡知を得たいと思う」
ラムクマ−ルは彼の言葉を若者にありがちな理想主義だと思ったが、まだ村からでてきたばかりであるし、カルカッタの生活に慣れるまで、少し時間を与えようと思って、しばらくこの件は放置しておくことにした。
このような自由な環境のなかで、ガダダ−ルの精神は静かに熟成していった。

ここでしばらく話の焦点を、少年ラ−マクリシュナからラニ・ラスマニという女性に移したいと思う。彼女はカルカッタの大富豪で、のちにラ−マクリシュナが住むことになるカ−リ−寺院を建てる女性だ。彼女の肖像画を見ると、りんとしたうつくしさと気品をかんじさせる。彼女の物語もたいへん興味深い。
ラニ・ラスマニは、1793年、カルカッタの約50キロ北にあるコナという村で生まれた。彼女はラスマニと名付けられたが、通常、みんなからラニ(女王)というニックネ−ムで呼ばれた。父親は農業のかたわら、家の屋根修理などいろいろな雑用をして生計をたてていたが、暮らしぶりはたいへん貧しかった。インドの貧しい家の子供たちは、小さいときから家事の手伝いをしなければならない。彼女もまた子供の頃から、畑にいる父親に昼の弁当をとどけたり、野菜の収穫を手伝ったり、弟や妹たちのお守りをしたりして、母親の手助けをした。
父親はベンガル語の読み書きができたので、それを彼女に教えた。それから、もうひとつ、彼には宗教的な物語を語って聞かすという才能があった。父親が村人たちに「ラ−マヤ−ナ」や「マハ−バラタ」という神々の物語を語るとき、彼女はみんなといっしょにそれを聞いた。それは彼女のなかに神への信仰心をつくっていった。
1804年の春、彼女は数人の村人たちと一緒にガンジス河に沐浴に行った。そのとき彼女は11才だった。が、通常、だれもが彼女をもっと年上だと思った。年令のわりに身体もおおきく、目鼻立ちがすっきりして、背筋がまっすぐのび、そのしぐさはもう若い女性のまろやかさをただよわせていたからだ。その日、彼女はいつものように神に祈りをささげながらガンジス河で沐浴していた。
そのとき、一艚の舟が通りかかった。それはプリタラムという大富豪の舟で、彼は息子や友人たちを連れて、少しさきの聖地まで行こうとしていたのだ。プリタラムは低いカ−ストの出身だったが、生来の賢さと勤勉さをもって彼一代で財をなした人だ。息子のラジは17才で、すでに2回結婚したが、どちらの妻も子供を残さずに死んでいた。ラジはもう結婚する気になれなかったが、プリタラムは家系を絶やさないためにもういちど結婚してほしいと思っていた。
岸辺で沐浴しているラニに目をとめて、舟のなかのひとりが言った。
「きれいな娘さんだ・・・」
ラジはあたたかな春風に吹かれて、のんびり舟の旅を楽しんでいたが、その声にふと我にかえった。
「ほんとだ。なにか気品のようなものがある」と別のひとりが言った。
岸のほうを見ると、すぐにラニに目がとまった。彼女には、かがやくようなうつくしさがあった。
「きれいな人だ」と、ラジは心のなかでつぶやいた。
彼はいつのまにかじっと彼女を見つめていた。プリタラムはラジの表情の変化にすぐ気がついた。彼自身もしばらく彼女が沐浴しているのを眺めながら、にっこりほほ笑み、舟を岸につけて、使用人に彼女について情報を集めさせた。
プリタラムはラジの同意をえると、さっそく人を介してラニの父親に結婚の打診をした。ラニの父親に異存のあるはずがなく、彼らの結婚式は4月におこなわれた。

当時の結婚は女性の側からすると、なんの選択肢も残されていない。親がよいと思えばそれで決まりである。ひどいものだ。しかし、不思議なのはこのなかにでてくる夫婦のどれひとつとして不幸をかんじさせないことである。むしろ仲良く一緒に一生けんめい生きている。がまんしていたのか、それともそのような疑問すらわいてこないほど無邪気だったのか、私にはわからない。
そういえば数年前に、「いちばん幸せな国はどこか?」という調査がなされたという話を聞いたことがある。世界中の国の住人に「あなたは幸せか?」という質問をして、「幸せだ」と答えた人の比率がもっとも高い国が「いちばん幸せな国」というわけだ。その結果、「いちばん幸せな国」はバングラデシュだったそうだ。アジアやアフリカなどのいわゆる発展途上国がランクの上のほうに並び、アメリカやヨ−ロッパ諸国が30番台に並んでいたという。私はそれを聞いたとき、「えっ!」という驚きと「なるほど」という納得感を同時にかんじた。ものごとは理屈どおりにいかないものだ。
そういえば、私の母親も結婚するまで父親の顔を見たことがなかったという。
「よくそんなふうに結婚できるもんだね」と言ったら、「あの当時はそれがあたりまえだったのよ」と答えていた。
あの当時というのは、1950年ごろのことである。もっとも父親のほうは母親の顔を知っていたらしく、裏庭の木に登って、母親の実家のほうをじっと眺めていたという話を伯父から聞いたことがある。だが父親自身に確かめたわけではないから、ほんとうかどうか断定はできない。このふたりは、お互いの文句をぶつぶつ言いながら今も一緒に暮らしている。

1817年、ラジが30才のとき、父親のプリタラムが死んだ。そのとき、ラニは24才だった。そのあと、ラジとラニはふたりで事業を継続し、大きくしていった。 ラニは学校教育は受けていなかったが、すばらしい感性と知性とを持っていた。 世間的な常識をわきまえ、機転がきき、女性らしいけんそんとビジネス上の如才なさをバランスよくかねそなえていたので、ラジはそれをたいへん評価して、どんなことも彼女に相談してから決めるようになった。 彼らの富はまた飛躍的に増えていき、1821年には今でも「ラニ・ラスマニ御殿」として知られる新しい家を建てた。その家は七つのセクションにわかれ、全部で300の部屋があり、完成まで8年を費やしたという。 この家はカルカッタのジャン・バザ−ル地区に今もある。 通りに面した部分は、小さく区切られて商店になっている。ひとつのセクションのなかにはいると、小さな中庭があり、一階は倉庫、その上は住居になっているようだった。 たまたまそこにいた4、5人の若者たちに聞くと、そのなかのひとりがラニ・ラスマニの子孫で、彼が言うには、宮殿はその後3人の娘たちに相続され、それからその子孫たちに相続されていった結果、 今ではだれがどの部分を所有しているのかさえはっきりわからないほど、こまぎれ状態に所有されているらしい。 200年ちかくたった今となっては、大きな宮殿も疲れはて、重そうに見えたが、当時は人々の肝を抜くほどの大きさとはなやかさをもっていたにちがいない。
彼らは多くの慈善事業もおこなった。1823年、ベンガル地方に大洪水があったとき、彼らはすぐさま救済にのりだし、食料や衣服や毛布などを人々に分けあたえた。
同じ年、ラニの父親が死んだ。彼女が葬式のためにガンジス河に行ったとき、その沐浴場がひどい状態なのを見て、夫と相談して新しい沐浴場と道路をつくる計画をたてた。バブ・ガ−トとバブ・ロ−ドである。バブ・ロ−ドのほうは、今はラニ・ラスマニ・ロ−ドと呼ばれている。
そのほかにも、ニムタラ地区に死にゆく人のための家を建てたり、図書館の充実のために寄付したり、運河を渡るための無料のフェリ−をつくったり、タルクプル村に貯水池をほってやったり、大小さまざまな事業が実行された。その結果、ラジは1833年「ライ・バハドル(人々の指導者)」という勲章をもらった。
しかし、1836年、彼は49才のとき脳卒中で突然死んでしまう。盛大な葬式がおこなわれたが、ラニはショックで3日間起き上がれなかったという。
偶然だが、その同じ年にラ−マクリシュナが生まれている。

ラニは、いまやひとりで、この広大な所有地や財産を管理しなければならなかった。彼女の3人の娘婿たちがそれを手伝ったが、なかでも19才の若いマツ−が頼りになった。
マツ−は知性的で、理解と行動が素早く、実際的で、英語力にたけていた。彼はヒンズ−大学で学び、デベンドラナート・タゴ−ルと同級生だった。デベンドラナート・タゴ−ルは、のちに「ブラフモ・サマ−ジ」という新しい宗教改革の風を組織した人で、また、のちにノ−ベル賞をもらった詩人ラビンドラナート・タゴ−ルの父親でもある。
マツ−はラニの三番目の娘、カル−ナ、と結婚したが、1833年、彼女は一人息子をあとにのこして死んでしまう。ラニはマツ−の才能を高く評価していたので、そのあと彼を自分の末娘、ジャガダンバと結婚させた。 ラジの死後、彼はラニのもっとも信頼できる相談相手であり、忠実な息子であった。ラニは、マツ−とともに仕事を再開しはじめた。

インドの風習では、妻は夫の死後再婚することなく、尼僧のような宗教的生活をおくることになる。ラニもまた、朝早く起き、自宅内にある神殿で祈ることから一日がはじまる。朝食のあと、事務所に座って書類の決済をしたり、役人と会ったり、帳簿のチェックをしたり、さまざまな問題やプロジェクトについてマツ−と話しあったりする。昼食を食べてから一休みし、午後また事務所での仕事を監督する。夕方、神官(ブラ−ミン)が来て祈りの儀式がおこなわれるが、それに参加することもかかさない。彼女は神学者たちを招待して、聖典について講話を聞くことがなにより楽しみだった。
彼女は信仰のあつい人だったが、権威をかさにきた圧力にたいしては、断固たる態度を発揮した。
インドにドルガ・プジャという祭りがある。インドの祭りはどれもたいてい派手でにぎにぎしい。今この項を書いている現在、インドはデワリという最大の祭りの真っ最中である。この時期は、インドの正月のようなもので、街中いたるところで爆竹や爆弾のような花火が、はでな音をたてている。まるで市街戦の真っ只中にいるようなかんじさえする。ボ−ン! パン、パン、パン、パン、パン! ド−ン! これがインド中でおこなわれているのかと思うと、私のなかから感心ともあきれともつかない笑いがわきおこってくる。「祭りだ!」とほくそ笑む私の部屋のすぐ横で、今またド−ン!という大きな爆発がおこった。
ところで、話はドルガ・プジャである。この祭りのときドルガ神の儀式をおこなうために、早朝ガンジス河まで楽隊をひきいてジャン・バザ−ルからバブ・ガ−トまで行進した。これが朝早かったことと、楽隊の音がうるさいということで、ひとりのイギリス人官僚の眠りがさまたげられた。彼の常識からするとそれは非常識だったのだろう。彼は楽隊に音楽をやめるように言ったが、だれも彼の言葉を聞くものはなかった。彼は、警察に行って、すぐさまこの非常識な音楽をやめさせるように要請した。当時インドはイギリスの植民地である。支配者官僚にさからうことはできない。警察からの通知がラニの楽隊にとどいた。しかしラニは楽隊の数を倍にふやして、翌日、ますますにぎやかに行進させた。人々は大喜びで楽隊とともにガンジス河までの道のりを踊りながら歩いた。
その結果、この件は裁判にもちこまれ、ラニの側が50ルピ−の罰金を払うように言い渡された。ラニは、政府がインドの伝統的な宗教儀式に対立する態度をとったことに腹を立てた。彼女は罰金を支払い、そのうえでバブ・ロ−ドの両端をバリケ−ドで封鎖してしまった。交通が遮断され、混乱がつづいたので、政府はラニにバリケ−ドを開くように懇願した。ラニは返答の手紙にこう書いた。
「道路は私個人の所有に属します。そこを歩いて罰金を払うのは納得がいきません。なんらかの補償がなされるまで、ここを通ることを許可しません」
これに対して政府はなにも手出しできなかった。法律的には道路はラニのものだからだ。ラニの政府に対する挑戦にカルカッタの新聞は拍手喝采を送り、
「ラニとドルガ神が走る、イギリス政府はじゃまできぬ!」などと書きたてた。
ついに政府が折れて、彼女の罰金を返済し、ラニはバリケ−ドを解除した。

また、あるとき、ガンジス河で魚をとって暮らしている漁師たちにたいして、政府が新しい税金をかけようとした。漁師たちは土地の有力者に頼んで、守ってもらおうとこころみたが、だれひとりとしてよい返事をくれるものがいなかった。最後に彼らはラニのところに行った。
話を聞いたラニは、
「わかりました。なんとかやってみましょう」と言った。
しばらくしてから、ラニは政府に1万ルピ−払って、グスリ地区からメチアブル−ズ地区にかけてのガンジス河での漁業独占権を手に入れた。それから、彼女は漁師たちに頼んでバリケ−ドを作り、その内側で漁をするぶんには税金を払う必要はないことをあきらかにした。バリケ−ドは東岸から西岸にかけてすきまなく作られたため、水上交通が遮断され、商業用の舟も仕事ができなくなってしまった。政府から警告とバリケ−ドの撤去命令が来たとき、ラニはこう返答した。
「大きな汽船が通ると魚が怖がって、あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、卵を生まなくなります。その結果、漁師たちはたくさん魚をとることができません。彼らにはほかの収入源がないのです。それに、私はこの漁師たちを援助するために政府に大金を払ったのですから、法的に、私には自分の漁業領域にバリケ−ドを張る権利があります」
ついに政府が新しい税金をみあわせ、ラニに漁業権利金を返却するということでバリケ−ドが撤去された。
ラニは貧しい人たちにたいしてつねに援助の手をさしのべ、ときには権力者にたいして賢く勇敢に立ち向かった。

1847年、ラニはベナレスへ巡礼の旅にでようと思った。ベナレスはヒンズ−教徒にとって、もっとも重要な聖地のひとつだ。人々はみな死ぬときはベナレスで死にたい、と思っている。ベナレスで死ねばもう輪廻して生まれてくることはない。そこで死ぬことのできる人は幸せであり、そこで死ねなくても生きているうちに一度は訪れてみたいと思っている場所だ。
当時は鉄道が通っていなかったので、彼女は舟で行くことにして六ヵ月分の食料品をはじめ、衣服、装飾品、薬など必要なものの用意をととのえさせた。舟は全部で25艘になり、うちわけは食料品その他をつんだ舟が七艚、ラニのために一艚、三人の娘とその家族のために三艚、護衛官たちのために二艚、召使のために二艚、その他親類縁者、友人たちのために四艚、彼女の所有地を管理する者たちのために二艚、医者と薬の供給のために一艚、洗濯人たちの舟として一艚、ミルクを供給する牛4頭のために一艚、牛のまぐさを貯蔵するために一艚である。これで六ヵ月間旅をするというのだからたいへんなものだ。考えただけでもため息がでてくる。
用意万端ととのい、いよいよ出発を明日にひかえた夜、ラニは奇妙な夢を見た。聖母カ−リ−神が夢のなかにあらわれ、こう言ったのだ。
「ベナレスに行く必要はない。そのかわり、ガンジス河のわきに私の像をまつり、礼拝と供物を手配しなさい。私は像のなかに臨在して、おまえの祈りを受け入れるであろう」
ラニはそれをカ−リ−神のおつげだと思い、すぐさま巡礼を中止し、用意されたものはすべて人々に分け与えられた。(写真はカーリー寺院に祭られているカーリー母神)

ラニは適当な場所を探ししはじめた。そして、ダクシネシュワ−ルに20エ−カ−(6000坪)の土地を見つけた。ダクシネシュワ−ルはカルカッタから北へ約5キロほどのところにあり、その土地はガンジス河の東岸に隣接していた。土地の半分はイギリス人の別荘で、残りの半分はイスラム教徒の墓地であった。
カ−リ−寺院の建設は1847年に始まり、完成までに8年の歳月をついやした。敷地の中央に聖母カ−リ−寺院があり、その横にクリシュナ寺院、広場をへだてたところにシバをまつる12の小寺院がならび、東と南側に事務所や食堂、神官たちの休憩所や賓客が滞在できる部屋などが敷地をかこむ塀のようになって建っている。土地の購入に5万ルピ−、河沿いの堤防工事に16万ルピ−、寺院建築に90万ルピ−、そのほか寺院の維持のための基金として23万ルピ−の土地が別に購入された。
のちにラ−マクリシュナがカルカッタに馬車で行ったとき、3ルピ−ほど払ったと記録にある。今、カルカッタの中心部からダクシネシュワ−ルまでタクシ−で行くと150ルピ−だ。馬車とタクシ−で比較するのはむずかしいが、いろいろな価格を検討してみると、当時の1ルピ−はいまの百倍くらいの価値があったように思う。

ラニの願いは、彼女の寺院で食物を料理して神に供え、聖者やブラ−ミンたちにプラサド−聖なる贈り物−として食べてもらうというものだった。
しかしカ−スト制度のきまりでは、唯一ブラ−ミンだけが料理した食物を神に供物としてささげることができる。ス−ドラ出身のラニには、それは許されない。彼女はヒンズ−聖典の権威たちに手紙を送り、打開策をさぐった。彼女はだれかひとりでも、この複雑で堅苦しいカ−スト制の抜け道を見つけてくれる人がいないかと、必死の思いだった。
手紙の返事はすべて悲観的なものだった。彼女は絶望的になっていった。これだけの金と時間をかけて、自分ののぞむような礼拝ができないのは、どうしても納得がいかない。だが、どの学者の意見もブラ−ミンでないラニの寺院では料理したものを神に供えることはできないというものだった。
そこへ、一通の手紙がとどいた。差出人の名前はラムクマ−ルとなっていた。ラニは彼の手紙を読みながら、心のなかで「万歳!」と叫んだ。「神の助けがやってきた。これでようやく私の願いがかなう」
ラニを喜ばせたラムクマ−ルの手紙にはこう書いてあった。
「寺院の権利を、ラニがブラ−ミンに贈るという形式をとれば、このブラ−ミンがカ−リ−神の像を安置し、料理した食物を供えることができる。そうなれば、聖典のさだめに反しないから、ほかのブラ−ミンたちも寺院でプラサドを受けることができるだろう」
ラニはラムクマ−ルの助言にしたがって、寺院の所有権を譲り、自分は代理人として管理上の問題を処理するという形式をととのえた。
ラニはラムクマ−ルの柔軟な解釈と、明確な態度にひかれて、彼にカ−リ−寺院の中心的な神官としての仕事を委託した。
カ−リ−寺院は、1855年5月吉日、女神像安置の儀式がとりおこなわれた。寺院はぜいたくに飾りたてられ、日が暮れてから無数のあかりをともして、式典が厳粛荘厳におこなわれていった。マントラの詠唱、神への賛歌、鐘やほら貝の音が寺院のすみずみに響きわたった。インド中から著名な神学者たちが招待され、数千人という人々に食事がほどこされた。ラニはこの式典のために20万ルピ−を費やしたという。(写真右、ダクシネシュワール・カーリー寺院)
この年、ラニは62才、ラムクマ−ルは50才、マツ−は38才、そしてガダダ−ルは19才の若者である。

ガダダ−ルはその日カ−リ−寺院の祝典に参加したが、そこで供された食事はとらず、カルカッタに戻っていった。数日たってラムクマ−ルが戻ってこないので、ふたたびダクシネシュワ−ルに行くと、ラムクマ−ルが寺院の仕事を正式に引き受けたことを弟に語った。この時点では、ガダダ−ルはカ−スト制にたいして保守的な見解をもっていた。ラムクマ−ルは聖典の語句を引用して、この寺院の神官をすることが、なんらブラ−ミン階級の名誉を汚さないことを強調し、サンスクリット学校を閉じることをあきらかにした。そして、ガダダ−ルに寺院の神官職をひきうけるように説得した。
ガダダ−ルは神官として働くことは拒否したが、寺院の食事はとらないこと、自分でガンジス河の水で食事をつくることを条件に、カ−リ−寺院に移ってくることを承諾した。
現在のダクシネシュワ−ルは、駅から寺院まで約1キロの道を埋めるように小さな店がたちならんでいて、常時数百人の善男善女が参拝のため花や供え物などを買いながらにぎわっている。しかし、ガダダ−ルがいたころはたいへん静かだった。現在公園になっている部分は、うっそうとしたジャングルでだれもよりつかなかったという。(写真右、14棟あるシバ寺院とその内部。写真左、本院への参拝に並ぶ人々)
ガダダ−ルはダクシネシュワ−ルで暮らすうちに、寺院の神聖さやガンジス河の恵みに目覚めていった。それは内なる神への渇望に拍車をかけた。彼は寺院の雑用を手伝い、食事はガンジス河の水で自炊した。

ある日、昼食をつくるため、ガンジス河に行こうとすると、
「おじさん!」と呼ぶ声がした。
ふりかえると、そこにがっしりした体格の少年が、にこにこ笑って立っていた。
「フリダイ!」
ガダダ−ルは、手に持った野菜をあやうく落としそうになったのを持ちなおして、言った。
「フリダイ、いつここに着いた?」
「ちょっとまえに着いたところです」
「そうか、よく来たな」
「噂でおじさんのことをきいたものだから、田舎からすっとんできた」
「腹がすいてるだろう?」
「うん!」
フリダイの祖母はクディラムの妹なので、フリダイはガダダ−ルの甥にあたるわけだが、年が3才しかちがわないので兄弟のようにして育った。彼は仕事をさがしてブルドワンという地方都市にでたが、仕事が見つからなかったので、ダクシネシュワ−ルの新しい寺院のことを聞いて、職をもとめて来たのである。彼はまだ16才だったが、身体が大きく、筋肉も発達していた。
その日から、ガダダ−ルのそばにはつねにフリダイがいた。フリダイは、これから23年間、ガダダ−ルの世話をすることになる。
ある日、彼らはガンジス河のわきで、土をこねてクリシュナ神の像をつくり、それを礼拝して遊んでいた。そこへマツ−が通りかかった。マツ−は、寺院で見かける少年がラムクマ−ルの弟であることを知っていた。そして理由はわからないが、この少年に好意をもっていた。
「なにをしているのかね?」とマツ−が声をかけた。
「クリシュナの像をつくっていたんです」
座っていたガダダ−ルが、マツ−を見上げるようにして笑った。
「ほう、私にも見せてくれないか?」
「そんな立派なものじゃないです」
マツ−が顔を近づけてみると、その像は表情が豊かで、すばらしく精巧につくられてあった。
「だれがつくったのかね?」
驚いたマツ−が聞くと、フリダイが、
「おじさんですよ」と言った。
「礼拝がすんだら、これを私にもらえないかね?」
「どうするんですか?」
彼がけげんそうにたずねると、
「子供のおみやげにしたいのだよ」
とマツ−が言った。ガダダ−ルはにこにこしながら、
「いいですよ」と言った。 (写真上は寺院裏のガンジス川で沐浴する人々、下は川のほうから見るカーリー寺院)

マツ−はその日家に帰ると、その像をもってラニの部屋へ行った。ラニは、寺院のオ−プニング祝典以来、疲れのせいか、健康をくずしていた。
「母さん、具合はどうですか」と言いながらマツ−が部屋に入っていくと、
「もう大丈夫よ」
ベッドの上で上半身を起こして、ラニが言った。
「これ、どう思います?」
ラツ−は、土でつくられた小さなクリシュナ像をラニにみせた。
「よくできてるわね。顔の表情がいいわ。だれがつくったの?」
「ラムクマ−ルの弟ですよ」
「すばらしいできばえね」
このときはじめて、ラニのなかにガダダ−ルが姿をあらわすのである。

マツ−はガダダ−ルを見かけるたびに、不思議な親密さをかんじていた。しかし、ラ−マクリシュナのほうは彼を避けているようだった。
あるとき、マツ−がラムクマ−ルに言った。
「君の弟は、ここでどんなことをしているのかね?」
ラムクマ−ルはちょっと困った表情をして、
「こまごました雑用を手伝ってます」と答えた。
「助手として礼拝の仕事をさせたらどうだろうか?」
マツ−は、彼に正式な職を与えたいと思ったのだ。
ラムクマ−ルは頭をぽりぽりかきながら、
「私もそう言ってるんですが、あれにその気がなくて・・・また、折りをみて言ってみましょう」
そんな会話がマツ−と兄のあいだにかわされたのをよそに、ガダダ−ルとフリダイは毎日ダクシネシュワ−ルの周辺を探索して楽しんでいた。

ある日、マツ−はカ−リ−寺院に来て、事務的な打ち合せをしていた。仕事が一段落して事務所を出ると、沐浴場(ガ−ト)のほうからガダダ−ルとフリダイが歩いてきた。マツ−はそれを見て、彼を呼んでくるよう事務官のひとりに頼んだ。
ガダダ−ルは、マツ−が会いたいと聞くと、困った様子をみせた。それに気がついて、フリダイが言った。
「なにを困ってるんだい、おじさん」
「あの人のところに行くと、寺院の仕事をするように言われるから・・・」
「それがどうして困るの?」とフリダイがたずねる。「彼はいい人だし、ここで仕事ができるのは悪くないじゃないか」
「礼拝だけならいいけど、高価なネックレスやブレスレットの管理もしなくちゃいけない。そういうのは苦手だよ」
ほんとうにいやそうな顔をする。
「僕が手伝ってやるよ」
フリダイが助け舟を出すと、、
「それなら・・・やってみるか」
とガダダ−ルが言った。彼ははフリダイをつれてマツ−のところに行った。マツ−は彼の条件をすべて受け入れ、彼らはラムクマ−ルの助手として、カ−リ−寺院で働くことになった。

さて、ガダダ−ルがカ−リ−寺院の神官として働きはじめたので、ここらで私も一般的な呼び名であるラ−マクリシュナという名前を使っていくことにする。この名前がいつごろから使われるようになったのかは、だれにもわからない。
ラ−マクリシュナは、カ−リ−寺院で働きだしてから、なにかが変わってきているのをかんじていた。毎日カ−リ−像の飾りつけをし、礼拝に参列しているうちに、内側からある種の高揚感がわきおこってくる。ラムクマ−ルが礼拝しているのをそばで見ていると、外側にたいする意識がなくなっていることもあった。礼拝が終わって、はっと気が付くとどれくらい時間がたっているのか、なにをしていたのか、記憶にない。しかし、すばらしい喜びにつつまれているのだ。
神殿の雰囲気が強烈になってくるのを、ラムクマ−ルやマツ−も感じはじめた。

寺院が開いてから三ヵ月ほどたったある日、事件がおこった。本殿のとなりにたつクルシュナ寺院の神官がクリシュナ像を運んでいるとき、大理石の床に足をすべらせて、ころんでしまったのだ。その拍子にクリシュナ像の足が折れてしまった。さわぎは大きくなり、ラニとマツ−に使いがだされた。善後策を講じるための集まりがもたれた。
意見を聞かれたラムクマ−ルが言った。
「一般的に言えば、壊れた像を礼拝することはできないでしょうね」
ほかの神官も事務の人間たちも、みんな同意の様子でうなずいた。
ラニはなぜかすっきりしないという表情で、
「わかりました。でも、カルカッタの神学者たちの意見も聞いてみましょう」
と言い、マツ−がすぐに補佐した。
「さっそく神学者たちに手紙をだします」
しかし、返事の答えはいちように否定的だった。 「
壊れた像はガンジス河に捨て、新しい像をつくって礼拝することがのぞましい」
この保守的で偏狭な考え方は、以前の料理した供物について意見を求めたときのことをラニに思い出させた。
「ああ、また同じだ」と彼女は思った。
ラニとしては、この壊れたクリシュナ像にそうとうの愛着がある。ひとつひとつの像は、彼女がこまかい指示をあたえて作らせたもので、そう簡単に捨てられるものではない。
新しい像をつくらせる手筈はととのえたものの、わりきれない感情に支配されていた。
ある日、マツ−がラニに言った。
「ラムクマ−ルの弟がみんなとちがう意見を持っているようですよ」
「どんな意見なの?」
ラニは、以前見たクリシュナ像のことを思い出しながら聞いた。
「私も人づてに聞いたので、直接聞いてみましょう」
ラ−マクリシュナの礼拝が終わるのを待って、ふたりは彼に意見をもとめた。礼拝後の恍惚とした表情のまま、彼は言った。
「学者たちの意見はばかげている。もしラニの息子が足を骨折したら、ラニは彼を捨てて新しい息子にすげかえるだろうか。それとも、医者を呼んで手当てさせるだろうか。 ここでも同じことが言える。クリシュナ像は修理して、まえと同じように礼拝されるべきだ」
ラ−マクリシュナの意見がラニの支持をえて、学者たちに知らされた。彼らは最初納得できなかったが、単純で明快なラ−マクリシュナの洞察に異義をとなえることもできなかった。それはラニののぞむ解決策でもあった。彼女はラ−マクリシュナに像の修理を依頼し、彼は今みてもどこを修理したのかわからないほど上手にそれを修理した。
このあとクリシュナ寺院の神官は解雇され、ラ−マクリシュナがその後任になった。 

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