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ラーマクリシュナ(1)

- 空のうた -

第1章

必要なことはただひとつ、神を知ることだ。 なぜあなたは、世界、宇宙の創造、科学などというものに首をつっこんで、 人生を無駄にしてしまうのだろうか。
あなたの仕事はマンゴ−を食べることだ。 マンゴ−林に何百本の木があり、何万本の枝があり、 何百万の葉があるかなどということを知る必要はない。
あなたは、マンゴ−林にマンゴ−を食べるために行く。 行って、それを食べなさい。
人はこの世に、神を知るために生まれる。 ほかのことに心を奪われて、それを忘れてはいけない。
あなたはマンゴ−を食べるためにやってきた。 まっすぐそこに行って、マンゴ−を食べなさい。 そして、「幸せ」になりなさい


ラ−マクリシュナは、19世紀後半、インドのカルカッタで生きた人である。
当時のカルカッタはインドの首都であり、政治的にも、精神的にも、文化的にもインドの中心地であった。 イギリスの東インド会社の本拠地として、西洋の思想文化をいちはやく取り入れることもできた。 カルカッタは新しい文化と古い伝統が葛藤しながら共存する新進気鋭の都市であった。
ラ−マクリシュナは破天荒な行動とともに、叡知にあふれた言葉と深い洞察によって多くの人に愛された精神的な師(グル)である。
私は、数年前北インドを旅しているとき、偶然、一冊の本を手に入れたことがあった。 それはラ−マクリシュナの伝記だった。そして、その本のなかには3枚の写真があった。そのなかの1枚の写真を見たとき、私の世界は一瞬凍りついた、かのように思えた。
私の頭のなかは真っ白になって、私はただじっと写真を見つめつづけた。 ラ−マクリシュナの写真を見るのは、そのときがはじめてだった。
その写真は、1881年12月10日、カルカッタの写真館で取られたものだった。そのとき彼は45才だった。
ラ−マクリシュナは右腕を台の上において立っている。その姿は素朴な田舎の親爺さんといったかんじで、とりたてて言うほどのことはない。 だが、彼の目が不思議としか言いようがないほど、この世をはるかに飛び越えている。
「こんな目は見たことがない」と私は思った。「どのような精神状態のときに、人はこんな目を持つのだろうか?」
彼の目は、一方で天空の至福に酔いしれ、一方で世間に生きる人々をきわめて冷静に見守っているかのようだ。私はそれまで、こんな目をもつ人を見たことがなかった。 そのときはじめて、私はラ−マクリシュナという人に深い興味を持った。

私は、それまでにも、彼について、いくつかの逸話をきいたことがあった。 それはこのような話だった。
ラ−マクリシュナは、カ−リ−寺院の神官として礼拝をつかさどっていた。だが、その礼拝のしかたは常軌を逸していた。通常、ヒンズー教の礼拝は、鐘をならしながら、聖なる火を神の像にささげながら祈る。 だが、彼は大声で母神、カ−リ−にこう話しかけるのだ。
「母さん(マ−)、母さん(マー)、降りてきなよ。一緒に歌って踊ろうじゃないか!」
礼拝がはじまると彼は陶酔状態になり、ともした炎を女神カ−リ−にささげるかわりに自分にむかってささげ、ハイビスカスの花を自分の頭にふりそそぐ。
「おお、すばらしいよ。母さん(マ−)」
そうかと思うと、あるときは、母親に反抗する子供のように駄々をこね、怒って寺院の扉を閉めてしまう。
「今日は人々に会わせないよ!」
参拝できない人たちが当惑してわけを聞くと、彼はにやにや笑いながら言う。
「お仕置きだよ」
彼にとって、母神カ−リ−はたんなる祈りの対象としての神でなく、実際に生きている母であり、甘えたり、喧嘩したりしながら共に生きていた。

あるとき、金持ちの男が、金貨を1000枚寄付しようと申し出た。
インドにおいて、布施することは徳を積むことだと考えられている。男は、聖者から精神的な祝福が得られると思った。
ラ−マクリシュナはそれを受け取って、言った。
「たいへん結構だ。これで金貨は私のものだね」
「もちろんです。好きなようにお使いください」
「それじゃ、ひとつ頼みがあるがきいてくれるかね」
「なんでもおっしゃってください」
「この金貨をガンジス河に捨ててきておくれ」
「えっ!、金貨を?・・・全部ですか?」
男は信じられないという表情で、ラ−マクリシュナを見た。
「壷ごと捨てなさい」とラ−マクリシュナは言った。
男はしぶしぶ師の言葉に従った。もはや彼の金ではないのだが、金貨を運ぶ彼の足取りはいかにも重そうだった。
いくらたっても男が戻ってこないので、ラ−マクリシュナは弟子に様子を見てくるように言った。 寺院のわきには沐浴場(ガ−ト)がある。行ってみると、そこは多くの人たちで溢れかえっていた。すごいさわぎだった。そして、その人込みの中心に男がいた。男は涙を流しながら金貨を一枚一枚かぞえ、河に放り投げた。
「656、657・・・おお、神よ、658・・・なんてことを、659・・・660枚・・・とほほ!」
まわりでは、金貨をひろおうと河に飛びこむ者、ひろいあげた金貨を高くさしあげてみなの歓声を受ける者、頓狂な声をあげて神に祈る者・・・、すごいお祭りさわぎだった。
話を聞いたラ−マクリシュナが、笑いながら言った。
「真の<放棄>とは一挙にされるものだ。ひとつひとつ捨てようとすると、かえって執着がついてまわるよ・・・あの男のように!」

ラ−マクリシュナは、神秘的な力を発揮することでも人々に知られていた。
あるとき舟に乗っていると、突然、彼が悲鳴をあげはじめた。
「おお、痛い!、やめてくれー!」
弟子が驚いて尋ねると、彼は向こう岸をゆびさして叫んだ。
「あれをやめさせろ!」
岸辺では、ひとりの男が木につながれた犬を鞭でたたいていた。
ラ−マクリシュナは犬がたたかれるたびに、まるで自分が叩かれているように悲鳴をあげる。いそいで舟を岸に寄せ、弟子たちが男を説得して犬を放してやった。犬の背中は血まみれだった。
ラ−マクリシュナは背中を痛そうにしながら、舟のなかであらい息をしていた。
「大丈夫ですか」と言って、弟子が背中を見ると、ラ−マクリシュナの背中は叩かれていた犬の背中と同じようにみみず腫れになっていた。

また、こんな話もある。
弟子のヴィヴェカナンダが瞑想中に霊的な力(サイキック・パワ−)を得たとき、彼はそれが本物かどうか試してみたいと思った。 兄弟弟子のカルは素朴で単純な男だ。カルはガンジス河から石を拾ってきては、自分の神棚に置いて礼拝していた。 ヴィヴェカナンダは瞑想のなかで、カルにむかって集めた石を全部捨てるように念力を送った。 彼が念力を送ると同時に、カルは突然なぜか石を捨てたいという強い欲求にかられた。石を全部抱えて外に出たところで、彼は呼びとめられた。 ラ−マクリシュナは、部屋のなかにいてその一部始終を知っていたのだ。
ラ−マクリシュナはカルに言った。
「何をするんだ」
「石を捨てるんです」
「どうして?」
「わからないけど、急に捨てたくなったんです」
ラ−マクリシュナは言った。
「石をそこにおいてヴィヴェカナンダを呼んできなさい。何が起きたのか、教えてあげよう」
ふたりがやってくると、ラ−マクリシュナはきびしい顔でヴィヴェカナンダに言った。
「力をこんなふうに使ってはいけない。この鍵は今から私があずかることにしよう。おまえはこれ以上一瞥を得ることはないだろう。そして、死ぬ3日前にふたたびこの鍵を受けとるだろう」
そして、そのとおりのことが起こった。その後、いくら瞑想しても彼は一瞥を得ることができなかった。そして、死の3日前にもうひとつの一瞥を得た。彼は自分の死が来たことを悟った。

いろいろな意味で興味深い逸話だが、調べていくと、そのまま事実というわけではないことがわかってきた。いくつかのできごとが、ひとつの話のなかに混じっていたり、まったく事実と反しているものもある。 これから徐々にあきらかにしていこう。 しかし、ここで「事実とはなにか」ということを少し考えてみたいと思う。
私は、以前、友人とふたりでケニヤを2ヵ月ほど旅したことがある。 マサイ族の住むサバンナを歩きまわり、マリンディの海岸で皆既日食を見たり、トルカナ湖畔の村で野菜欠乏状態になったり、だまされたり、盗まれたり、2ヵ月という短い期間であったが盛り沢山の旅だった。
それから15年くらいたってから、友人はその旅のできごとを本にまとめた。そして、それを読んで私はたいへん驚いた。 というのも、一緒に旅していたにもかかわらず、本に書かれていることは私の知らないことばかりだったからだ。同じトラックやバスで移動し、同じホテルや民家に泊まって、同じ人々を見ていたはずなのに、 ふたりの旅はまったく違うものであったということが、私を驚かせた。 あるとき、10人くらいのマサイ族の若者たちとトラックに同乗したことがあった。 男たちはスリムで精悍で、女たちは素朴でかわいらしい。 だが私の記憶はそこまでで、あとは鹿たちが走りまわったり、とうとつにジャンプしたりするしなやかな躍動感とか、ぬけるような青空や、移り変わるサバンナの風景などに目をうばわれていた。 だが、彼はマサイの若者たちがどんなふうに話したり、笑ったり、ふざけたりしているかを、詳しく描写していた。 それは私の知らない世界だった。私は彼のすぐとなりにいたにもかかわらず、それらのできごとは私の世界には存在しないのだ。彼の本を読みすすんでいくうちに、「これはまったくちがうふたつの世界だ」と私は思った。

これと同じことはつねに起こっている。
たとえば、あなたが森のなかのレストランで友達と食事しているとしよう。あなたは友達との会話を楽しみ、料理に舌づつみをうっている。 と同時に、会社で起こったできごとや家庭のトラブルなどが頭をかすめていく。
突然、友達が言う。
「カッコウが鳴いている」
そのときはじめて、あなたはカッコウが鳴いていることに気がつく。 もし言われなければ、あなたの世界にカッコウは存在していないかもしれない。 同じように、川のせせらぎ、鳥の鳴き声、まわりに咲いている花々、小さな昆虫や動物たち、数えきれないほどのできごとが同時におこっている。 あとになってそのときのことを友達と話したなら、いかにちがう世界を生きているかわかるだろう。あなたの世界と友達の世界は、並列的に存在する別々の世界である。
100人いれば、それぞれ異なった100の事実がある。 同じできごとのなかにいても、私の事実とあなたの事実は異なっている。 事実とは、あなたのマインドが焦点をあわせている部分のできごとにたいして、そのマインドが「そうだ」と判定(ジャッジ)をくだしたものだ。 そして、それは宇宙全体の祭り(リ−ラ)のなかでは、まめつぶのように小さな一部にすぎない。
ラ−マクリシュナについて書かれた本は、すべて弟子たちの記憶と記録にもとづいている。ラ−マクリシュナ自身はなにも書かなかった。 いくつかの手書きのメモのようなものが残っているだけだ。そして、当時はまだテ−プレコ−ダ−もビデオもない。写真が3枚残されているだけである。 そして、弟子たちの思い出はおうおうにして神秘的に美化されがちで、うつくしい寓話ではあっても、客観的なものとは言いがたい。 それに、真理を実現していないマインドが、自由に大空をはばたく鳳凰を正確に表現することは不可能だ。 「群盲、像をなでるがごとし」である。それは避けようがない。
上の逸話はいわゆる「事実」ではないかもしれない。 しかし、ある意味では「真実」だと言える。事実と真実は、ときとして一致しないことがある。 私は、狭い意味での事実にはあまりこだわらない。私はラ−マクリシュナという真理を実現した人が、どのようにこの世で遊びたわむれたか、というところに興味があるからだ。 存在の多様性のなかで、このような「輝き」がひとつ創造されたことにひかれるからだ。
彼がいつ何をしたかという事実に興味があるわけではない。それは他の人の手にゆだねよう。 だから私が書いていることは、実際にあった話としての「実話」というよりは、真実をさししめす「真話」だといったほうがいいかもしれない。

ガンジス川から見たカーリー寺院

師としてのラ−マクリシュナの日常は単純である。 人々が彼に会いにやってくる。 そうすると、彼は神にささげる歌を歌う。 少ししわがれたその声は、うっとりさせるような味わい深いものだったという。
彼はそのなかに完全に没頭している。 そして、彼は踊る。ときには熱狂的に・・・、 すると人々はみな踊りだし、歓喜の祭りが創造される。 そして、彼は語る。さまざまな逸話やたとえ話を駆使しながら、真理が泉のように語られる。それは宝の山である。 そして、笑う。まるで、5才の子供のように・・・。 そして、涙を流す。純朴な魂が神を求める涙に呼応して・・・。
ラーマクリシュナは、たびたび人々の目の前でサマ−ディ(三昧)の状態にはいる。 それは意識が外の世界とのつながりを失い、存在と一体になる至福の状態である。人々はそれを驚嘆の眼差しで見守ったという。
彼のサマ−ディの特徴は、ほんのちょっとしたきっかけでひんぱんに起こるというところにある。 歌をうたっているとき、会話しているとき、彼はすぐにサマ−ディの状態にはいってしまう。 まるでお茶でも飲むような気軽さで、サマ−ディが彼を訪れる。だが、彼のほうから操作(コントロ−ル)するわけではない。 それは深い瞑想状態の結果としてできあがるというようなものではない。このようなサマ−ディ体験はこの人特有のものだ。
私自身は、特異な霊的現象を過大評価しないたちである。なぜなら、特殊な現象というものは例外なく一過性のものであり、来ては去り、浮かんでは消えてゆく泡(バブル)のようなものだからだ。 そのような現象は、それがどんなに美しいものであろうと価値のあるものではない、「真理」ではない。 なぜなら、「真理」は永遠であるからだ。
永遠であるということは、言葉をかえていえば、いまこの瞬間、ここに、あるがままの「あなた」とともにあるということにほかならない。 「真理」は、特異な霊的現象や奇跡などとはなんの関係もない。 きらきら輝くうつくしい嘘にまどわされてはならない。

「人として生まれてもっとも大切なことは、神を知ることだ。それを知らないうちは、ほんとうの喜びを得ることはできない。 人は俗世の波にほんろうされ、しまいには不満足な生をおくることになるだろう」とラ−マクリシュナは言う。
「神」と言おうと、「真理」と言おうと、それは同じことである。使われる言葉の違いによって、なにかちがうものを想像してはならない。 それらはまったく同じものを指さしている。
富士山は、北から登ろうと、南から登ろうと、同じ頂上にたどりつく。どちらから登りたいかは、たんなる好みの問題に属する。 それは、どちらかが一方より優れているとか、劣っているとかいう問題ではない。どちらからたどりつこうと、富士山の頂上はひとつであり、同じものだからだ。
形あるものをとおして本源にたどりつこうとするものたちは、「神」、「仏」、「アラ−」、「キリスト」、「クリシュナ」などの名前や、イメ−ジとしての像を、命綱としてもちいながら<これ>とひとつになろうとする。
形のないものをとおして本源にたどりつこうとするものたちは、「意識」、「覚醒」、「真我」、「空」、「無」、「光明」などの言葉をもちいて、言葉によって伝えきれない<これ>をさししめそうとする。
どのような言葉がもちいられようと、それがゆびさす究極の本質はおなじものである。 だから、あなたは自分にいちばんピンとくる言葉をひとつ選んで、ほかの言葉をそれにおきかえてみてもよい。より単純でわかりやすくなる。
真理は単純である。複雑なものはどこかにマインドの影がある。

ラ−マクリシュナは、このように語る。
「それは水のようなものだ。
ひとつの湖に、いくつかの沐浴場(ガ−ト)があるとしよう。 ある場所で水を飲んだヒンズ−教徒は、それを「ジャル」と呼ぶ。別な場所で水を飲んだイスラム教徒は、おなじ水を「パニ」と呼ぶ。そして、また別な場所で水を飲んだキリスト教徒は、「ウオ−タ−」と呼ぶ。 この三種類の呼び名は、ひとつであり、おなじものだ。名前がちがっているだけにすぎない。 おなじように真実を、あるものは「アラ−」と呼び、あるものは「神」と呼び、あるものは「カ−リ−」と呼び、あるものたちは他の名前で呼ぶのである」
(写真は立ったままサマディーに入っているラーマクリシュナ、後ろにいるのは甥のフリダイ)

日本人がそれを飲むと「ミズ」と呼び、「仏」と呼ぶことになる。ラ−マクリシュナは、「ジャル」も「パニ」も「ウオ−タ−」も「ミズ」も、名前が異なっているだけで実質は同じものだ、と言う。 これが真実である。
ヒンズ−教も、イスラム教も、キリスト教も、仏教も、名前と形式が異なっているだけで、ゆびさすその本質はおなじものだ。 自分のほうだけ正しくて、他の人たちはまちがっているなどと思って、違いをつくりだしてはいけない。 ラ−マクリシュナは「神」と言い、老子は「真理」と言い、ブッダは「空」という言葉をもちいた。
それは、さまざまなカット面をもつひとつのクリスタルが、一方向から見るとアメジスト色にかがやき、また別な方向からは乳白色に見えたり、うすいピンクやブル−に見えたりするが、 それは光の反射角度のちがいによってそう見えるだけであって、もともとのクリスタルはひとつであるということに似ている。
「神」も、「真理」も、「空」も、その表現のカット面からうける印象がことなるだけであって、その本源はおなじものだ。 それを言葉であらわすことはできない。古今の師のなかで、それに成功した人はいない。したがって、幾百万という言葉のはんらんにもかかわらず、それは処女地のまま今なお残されている。 そして、永遠に処女地のまま残されるだろう。

ラ−マクリシュナは真理の海に飛び込み、戻ってきた数少ない人たちのひとりだ。 彼の教えと生き方はきわめて個性的であり、精神世界の師のなかでもひときわ明るく輝く星のひとつだと言えるだろう。
「真理とはなにか」、「自分とはだれか」、「人生にはどんな意義があるのか」、「けっしてなくならない至福はどこにあるか」、このような問いをもつのは人間だけである。 「私の人生はこれでよいのだろうか」と悩んでいる犬を見たことがあるだろうか。 「真理とはなにか」を見性するために、猫が座禅を組んでいるという話は聞いたことがない。
人間以外のあらゆる生きものは、問いかえすことなく、無意識に、この光明のなかを生きている。
数十億年前、宇宙が生まれ、地球が生まれ、海ができ、森ができ、生物が生まれ、魚、恐竜、鳥、動物が生まれ、数百万年前、アフリカに人類の祖先が生まれた。
彼らは森を出て、サバンナを歩きまわり、ついにアフリカを出て、地球のすみずみにまで浸透していった。それは長い長い進化の歴史である。
そして、数千年前、この進化の最前線にはじめて「真理とはなにか」という問いがあらわれた。 心(マインド)がその本源(ル−ツ)を探しはじめた。
それは真に革命的なできごとだった。そして、その線上にブッダが生まれ、マハビ−ルが生まれ、老子が生まれ、ウパニシャッドの哲人たちが生まれた。 そのとき、この地球上にはじめて、生存競争(サバイバル)という次元の上に、精神性(スピリチュアル)という新しい次元が生まれた。 新しい質をもった「至福」、「愛」、「自由」というものが、地球という舞台のうえで花開きはじめた。 だから、もしこのような問いによって突き動かされているなら、あなたはすでにその問いそのものによって祝福されているといえる。
真理の探求者は答えを見いだすまで、喜びと苦しみのプロセスをくぐりぬける。 それは矛盾によって構成されているがゆえに、心(マインド)は葛藤する。
禅は、その過程(プロセス)をこう表現する。
「探求を始めるまえ、山は山であり、河は河である。 探求を始めると、山は山でなくなり、河は河でなくなる。 探求が終わると、ふたたび山は山であり、河は河である」
謎は最後にあきらかにされる。 そのとき、あなたは思いがけない答えに、一瞬言葉につまり、そして大笑いする。あるいは、泣くかもしれない。あるいは、その両方がいっしょにくるかもしれない。 いずれにせよ、道は最後まで歩かなければならない。これ以上進めないという地点がくるまで、立ち止まってはならない。 その道程には、すばらしい体験と絶望がある。
ラ−マクリシュナは、道を求める人々によくこの話をしたという。

あるところに、ひとりの年老いたきこりがいた。彼は毎日森にいって、木を集め、それを市場で売って生活していた。彼は貧しかった。身体も弱くなり、それほど多くの木を運ぶこともできなかった。
森には、ひとりのサドウ(修行者)が、いつもおなじ木の下に座って瞑想していた。ある日、サドウがきこりに言った。
「老人よ、いつもおなじところにいないで、少し先へ進みなさい」
言われるがまま2キロほど先まで行ってみると、彼はそこで白壇の木を見つけた。それは彼に一週間ぶんの金をもたらした。彼はすこし休養することができた。 彼が森へ行く回数は少なくなった。白壇の木は貴重品で、高価に売れたからだ。森にいくたびに、彼はサドウに捧げものをもっていった。 サドウはいつも静かに瞑想していた。そして、あるとき、きこりに言った。
「老人よ。白壇の木に満足しないで、もっと先まで進みなさい」
その日、彼はいつもより森の奥まで進んでいった。そして、そこで銅の鉱脈を発見した。それはゆうに一ヵ月分の金になった。彼はうれしくてたまらなかった。 しばらくたってから、森へ行くとサドウが言った。
「老人よ。私はこの森を出て、巡礼の旅に行く。いいかね、覚えておきなさい。つねに先に進むのだ」
きこりは、その日、いつもより先まで進んでみた。そこには銀の鉱脈があった。帰り道、サドウの木のそばを通ったが、サドウはもういなかった。老人は銀を市場で売った。彼は金持ちになった。 いまや彼は一年に数回森へ行くだけだった。しかし、あれ以来サドウの姿を見ることはなかった。あるとき、老人は森を歩きながらこう思った。
「森の聖者は、つねに先に進みなさいと言った。私は銀の鉱脈に満足して、ここにとどまるべきではない。先に進もう」
そして彼はさらに先に進み、ある日金鉱を見つけ、そしてさらに先に進んでダイヤモンドを発見した。

「神を知ることは可能だ」とラ−マクリシュナは言う。「それは、あなたのハ−トのなかに埋もれているダイヤモンドのようなものだ。それを見つけたとき、あなたはほんとうのよろこびを知るだろう。 それを見つけるまで先に進まなければならない」




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