スパイスがいっぱい |
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エピローグ現在、インドは大きく変化している。 最近の飛躍的な経済成長の影響で、多くの外車が旧来のアンバサダーにとってかわった。そして、インフレの波が庶民の台所を直撃している。 経済成長の波にのった金持ちはより金持ちになり、その波とは何の関係もない人たちは相対的にますます貧しくなる。 ヒンズー教とイスラム教という宗教対立に端をはっする戦争やテロの脅威が、核兵器に火をつけるかもしれない。 町には自動車やモーターバイクがあふれ、その排気ガスで年々空気が汚染されている。 こういったことをあげていけばきりがない。 しかし、それらはインドという海の表面にあらわれる小さな波にすぎない。その下には不動の深海が横たわっている。それが本来のインドだ。 ブッダやマハヴィーラ、ラマナ・マハリシやクリシュナムルティなどという人たちは、こちらの世界に生きている。そして、こちらの世界は、千年前も、二千年前も、なにひとつ変わることなく、静寂と至福に満ちている。 それは時間や空間に左右されることがないがゆえに、二千キロ離れた場所で、二千年前に話された寓話が、<いま・ここ>でなおも生きつづけるのである。 それらは、師から弟子へと語り伝えられていった。 話の要点は、時と場所と状況によって微妙に変化していった。とくに師の方法論的な立場の相違によって、物語りの展開も異なっていく。 そのいくつかの例を、これから紹介していこう。 「ダイヤの値段」 ここで取り上げたのはラーマクリシュナが弟子たちに話したものだが、その原形は数百年前に記録されたスーフィーの物語りに見いだすことができる。それは、このような展開になっている。 あるとき、ドンヌンのところにひとりの青年がやってきて、スーフィーは間違っているなどといろいろ悪態をついた。 師は指輪をはずして、それを彼に渡してから、言った。 「これを市場(バザール)の露天商に持っていって、金貨一枚に値がつくかどうかやってごらん」 だが市場のなかでは、銀貨一枚すら出そうとする人はいなかった。 青年は指輪を持ち帰った。 「今度は」とドンヌンが言った。「これを本物の宝石商のところへ持っていって、彼がいくら払おうとするかみてごらん」 宝石商は、指輪に金貨千枚払おうと言った。青年はたいへん驚いた。 「さて」とドンヌンが言った。「スーフィーにたいするおまえの知識は、宝石にたいする露天商のそれとかわらない。宝石に価値をつけたいなら宝石商になりなさい」 ラーマクリシュナの話は、それを実際に聞いた弟子たちによって記録されたものだ。真理をダイヤモンドにたくしながら、インドの市場(バザール)の様子などもいきいきと描写されている。一方で、スーフィーの話のほうはたいへん格調高くまとめられている。おそらくドンヌンという師がなにかの折りに話した言葉が、時代をへて語り継がれるうちに、このような物語りとして結晶化していったものだろう。 昔の情報伝達の手段はおもに口伝によったがゆえに、どの話にも微妙な相違がでてくるが、それは同時に自由な創造性の発露ともなっている。 「思いがかなう樹」で出てくる虎は、別な師の話では妖怪になったり、ライオンになったりしている。 「海をさがす」の魚が海を知る瞬間は、ラメッシュによれば、魚が海からつりあげられた瞬間になってくる。 「先に進む」の話の構造は、基本的にオニオン・ピーリング・ヴィジョンにもとづいているが、パール・ヴィジョンにもとづいたものによれば、サドウはつねに森の入り口のところで坐っており、老きこりは金の鉱脈を見つけ、ダイヤモンドの鉱脈を見つけたあとに、ふと我にかえって、こう思うのだ。 「森の聖者は、なぜ自分でダイヤを掘らずに、ただ坐りつづけているのだろうか?」 そして彼は外側のダイヤを捨てて、サドウの弟子となり、内側のダイヤを見つけるため、師のとなりに坐って目を閉じるのである。 逆に、「ライオンの咆哮(ほうこう)」がオニオン・ピーリング・ヴィジョンの視点から語られると、若いライオン(弟子)は大人のライオン(師)とともに森のなかに入って、狩の仕方、肉の食べ方などを学んでいくという展開になる。 インドにはヒンズー教という総称のもとで、ヨガ的なアプローチからタントラ的なアプローチにいたるまでさまざまな方法論が存在する。そして、アジアにはヒンズー教以外にも、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教などという宗教があり、それぞれの方法論を有している。したがって、真理をさししめす指としての物語りは、無数に変化していくのである。 しかし、物語りの展開がどのように変化しようと、そこにはつねにけっして変化しないものがひとつある。月をさししめす指がどれほど多く存在しようと、さししめされる月はたったひとつである。どれほどの豊かさと多様性をもって物語りが表現されようと、そのもとにある真理はひとつである。 それはつねに静かに至福にあふれている。 前のページに戻る トップに戻る |
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