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6―師をみつける

ひとりの若者が、師を見いだすための旅に出た。
行く先々でいろいろな人や場所を訪れてみたが、「これこそ私の師だ!」という人には出会わなかった。
あるとき、彼は歩き疲れて、草原の大きな木の下で休んだ。そこには、すでにひとりの老人が坐っていた。
若者はとわずがたりに、自分の旅について、その目的について、老人に話した。
老人は若者の話をだまって聞いたあと、言った。
「おまえの師は、この道をどこまでも西に進んでいったところで見つかるだろう」
老人は、若者の師がどんな姿かたちをしていて、どんなところで、 どんなふうに坐っているかを詳細に語ってきかせた。
若者は老人に礼を言い、よろこび勇んで旅をつづけた。
太陽が沈む方向にむかって、ときには歩き、ときには舟に乗った。
旅先で得た情報をたよりに、さまざまな師やサドウーを訪ねてみたが、 老人が言いあらわしたような人には出会わなかった。
彼はそのたびに西にむかって進みつづけた。
そうして、20年が過ぎた。
若者はもはや壮年になっていた。だが、師はまだ見つからなかった。彼は旅に疲れ果てていた。
あるとき、彼は夕日が沈む方向に、大きな樹があるのを見つけた。そして、その下には人が坐っているようだった。
近づくにつれて、そこに坐っている人は、20年前に老人が語り描いた師の姿そのものだった。
師は、オレンジ色の衣(ロ−ブ)をまとい、長い白髪を肩までたなびかせている。
そのとおりだ。
師は、大きな木の下で、夕日にむかって蓮華座に坐っている。
まったく、そのとおりだった。
「見つけた!」
彼ははち切れんばかりのよろこびとともに、師のもとに駆けよった。
そして、師の顔を見て、驚いた。
それは、20年前に出会った老人その人だった。
老人は自分の姿を描写して聞かせ、若者はそれを見つけるために、地球をちょうど一周してしまったというわけだ。
「あなたでしたか――!」
と彼は叫んだ。
すると、師はにこりと笑って、「ようやく着いたか」と言った。
「それなら、どうしてあのときそう言ってくれなかったのですか? そうすれば、みすみす20年という時間を無駄にせずにすんだものを・・・」
彼がうらめしそうに言うと、師は毅然とした口調で言った。
「あのときも今も、私は同じだ。しかし、あのときのおまえには理解できなかった。 それがわかるためには、20年という年月の探求が必要だったのだ」



【コメンタリー】
師を見つけるのはむずかしい。
それにはいくつかの理由がある。
第一に、ほんとうの師の数が少ないことだ。
目覚めた人が少ないというわけではない。この地球上には、つねに少なくとも200人の覚者がいると言われている。
この地球の物質と精神のバランスをとるためには、それくらいの覚醒した意識が必要なのだ。
20世紀後半から現在にかけて、地球の物質的側面は救いようがないほど悪くなってきている。空気も水も汚染され、食物にはわけのわからない化学的物質が混入している。
いわゆるテロリストや資本主義国家の爆弾があちらこちらで爆発しているし、地球上の核兵器が爆発すれば地球自体が一瞬にしてふっとんでしまうという。
この狂気のバランスをとるためには、とても200人では足りないだろう。2000人くらいは最低でも必要だ。ということは、それくらいはいるということかもしれない。
そして、悪いニュ−スばかりではない。ある人の説によると、この数が一万人に達したなら、この地球は新しい意識体になる可能性があるという。
実際、20世紀というひとつの集合無意識層の幕が閉じ、新しい世紀に移行する頃から多くの人が目覚めはじめている。昔はそれが東洋にかたよっていたが、最近では西洋にも多くの目覚めた人たちがあらわれてきた。これもまたバランスというものだろう。
しかし、目覚めた人のすべてが師になるわけではない。それどころか、ほとんどの人は目覚めたあと、静かに舞台から消えていってしまう。
10人の目覚めた人のうち9人は沈黙すると言われている。
それは、彼らが不必要な葛藤を望まないからだ。
師としての資質をおおやけに宣言した人は、ほとんど大なり小なり世間から手ひどい仕打ちをうける。
その結果、キリストは十字架にかけられた。
ス−フィ−の師、アルヒラ−ジ・マンス−ルは、生きたまま身体をひとつひとつ切りきざまれたあげく、殺された。
アリストテレスは毒をもられた。
だから、よほどの覚悟をしないと、だれもそんな仕事をしたがらないわけだ。まわりじゅうから嫉妬と憎悪の矢が飛んでくる。
それでもやりたいというのは、よほど人に教えたり、指導したりするのが好きな人たちである。
どこにでも人に教えるのが好きな人たちがいるものだ。
どこにでも人の世話をやくのが好きな人たちがいるものだ。
そのような資質をもった人たちが、師としての仕事をはじめる。
それは、実際問題、たいへん疲れる仕事である。
なぜなら、なにもわからない人たちが、なにもかもわかったような顔をして、あらゆる種類の愚行をしかけてくるからだ。
だから、たいていの覚者は、生のもたらす一瞬一瞬を静かに生きていくほうを選ぶ。
覚者が沈黙するもうひとつの理由は、その目覚めたものを直接描写することが不可能だということにもある。
百万語を使って表現しようと試みても、一言もそれに触れさえしないからだ。
どのような行為を用いてそれを見せようとしても、真理はけっしてその網にとらえられないからだ。
この不可能を可能にするためには技術(テクニック)がいる。

ブッダが悟ったとき、彼のマインドのなかでこのような対話がなされた。
「私が得たこの法はあまりにも微妙であるため、人々に理解されることはむずかしい。私はこの甘露とともに沈黙したほうがよい」
「それでは人々は救われない。この微妙な法がわかれば、人はこの世の苦しみから逃れることができる。私は法を説くべきである」
仏典では悪魔がささやいて、神々が説得したという構図を用いているが、それは若きブッダの心のなかの葛藤であったはずだ。
彼は2週間のあいだ、悟りのもたらす甘露を味わいながら、これをどのように人々に分かちあたえる(シェア−)かという方法論を考えている。そして、一緒に修行した5人の仲間たちならわかるかもしれないと思って、サルナ−トへ旅立つのだ。
おもしろいことにブッダの最初の説法はこの5人の仲間たちではなく、サルナ−トへむかう途中に出会ったひとりの年老いたサドウーになされている。
その老人は若きブッダの熱く燃えるような説法を聞いたあと、首を横にふりながら、こう言ったという。
「若者よ、そのようにおごりたかぶるものではない」
さぞかし、ブッダはがっかりしたことだろう。世界に名だたる師も、出だしはさんざんだったのだ。若きブッダ、36才の頃である。
のちに彼は四諦八正道という修行体系をつくりだすが、最初からそのように整理系統だてられていたわけではない。原始仏教経典を読むと、ブッダはたいへん素朴で単純に、詩的なたとえを交えながら、当時の人々に説明している。
説明できないことをどのように説明してわからせるかというのは、ひとつの芸術(ア−ト)である。それには一種のセンス、才能といったものが必要とされる。
そういったものは、だれもが持っているわけではない。
だが、それは他人に道をしめそうとするときに必要なだけであって、それによって覚醒の質が変わるものではない。覚醒する魂に優劣があるわけではない。
ス−フィ−の物語りのなかでは、自分の靴をみがいていた男やタクシ−の運転手が、実は覚醒した人であったという話がよくでてくる。
実際、今あなたのとなりでコ−ヒ−を飲んでいる人が、実はそうなのかもしれない。
だが、もしあなたがたずねても、彼は「そうだ」とは言わないだろう。おそらく「とんでもない」と言うにちがいない。
通常、機会がつくられなければ、彼らは表面にはあらわれてこない。だから、生きているほんとうの師を見つけるのはむずかしいのだ。
にもかかわらず、あなたが真摯に求めつづけるなら、師はいつかかならずあなたの目の前にあらわれるだろう。
それが精神世界の法である。

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