スパイスがいっぱい |
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5−先に進むあるところに、年老いたきこりがいた。毎日森に行って、まきを集め、それを市場(バザール)で売って生活していた。彼は貧しかった。身体も弱くなり、それほど多くのまきを運ぶこともできなかった。森には、ひとりのサドウー−修行僧−が、いつも同じ樹の下に座って瞑想していた。ある日、サドウーがきこりに言った。 「老人よ、いつも同じところにいないで、少し先に進みなさい」 言われるがまま2キロほど先まで行ってみると、彼はそこに白壇の木を見つけた。それはほぼ一週間分の稼ぎをもたらした。 彼はすこし休養することができた。 彼が森へ行く回数は少なくなった。白壇の木は貴重品で、高価に売れたからだ。だが森に行くたびに、彼はサドウーに捧げものをもっていった。 サドウーはいつも静かに瞑想していた。そして、あるとき、きこりに言った。 「老人よ。白壇の木に満足しないで、もっと先まで進みなさい」 その日、彼はいつもより森の奥まで進んでいった。そして、そこで銅の鉱脈を発見した。それはゆうに一ヵ月分の稼ぎに匹敵した。彼はうれしくてたまらなかった。 しばらくたってから、森へ行くとサドウが言った。 「老人よ。私はこの森を出て、巡礼の旅に行く。いいかね、覚えておきなさい。つねに先に進むのだよ」 きこりは、その日、いつもより先まで進んでみた。そこには銀の鉱脈があった。帰り道、サドウーの樹のそばを通ったが、サドウーはもういなかった。老人は銀を市場で売った。彼は金持ちになった。 いまや彼は一年に数回森へ行くだけだった。しかし、あれ以来サドウーの姿を見ることはなかった。あるとき、老人は森を歩きながらこう思った。 「森の聖者は、つねに先に進みなさいと言った。私は銀の鉱脈に満足して、ここにとどまるべきではない。先に進もう」 そして彼はさらに先に進み、ある日金鉱を見つけ、そしてさらに先に進んでダイヤモンドを発見した。 【コメンタリー】 森のなかには宝がある。だが、それを手に入れるためには、森のなかに入っていかなければならない。 森の奥深くに入ることは危険でもある。コブラに咬まれるかもしれないし、虎に遭遇するかもしれない。 かといって、森の入り口でまきを集めていても、人生の醍醐味は味わえない。安全だが、薄っぺらな日常が繰り返されるばかりだ。 子供の頃、大人になったらなにかすばらしいことがおこると誰もが思う。 大人になってみると、より安全で居心地のいい生活を得るためにあくせくしている。 それは本物ではない、と心の奥ではわかっている。 これは欺瞞だ、と正直につぶやく自分のハ−トに蓋をして、社会という城壁の内側で、群れのなかの羊のように毎日をおくる。 心から笑うことも、泣くこともなくなり、能面のような顔つきで、表情のないロボットのような人生をおくる。 しかし、いつまでそんな肌寒い人生をおくることができるだろうか? 少しでも知性(インテリジェンス)があれば、それは不可能だ。 いつかしら飽和点がやってくる。 それは<絶望>という形でやってくる。 あなたは、こんな人生には意味がないと思う。 こんな人生ならいつ捨ててもいいと思う。 そんなとき、あなたはどこかで賢者に出会うだろう。 それは渋谷のパブかもしれない。北海道の原野かもしれない。沖縄のビ−チかもしれない。ある日、ふと開いた本のなかの一節かもしれない。映画の中の主人公のつぶやきかもしれない。 賢者はどこにでもいる。そして、どこからでもあらわれる。 なぜなら、彼は実際にはあなたの内側にいるからだ。必要なときに外側の形を使ってあらわれるにすぎない。 だから、賢者はあなたの用意が整ったときに、姿をあらわして言う。 「先に進みなさい。森のなかに入っていきなさい。恐れてはならない。勇気をもって、ハ−トの中心に飛び込みなさい。そこに宝があるのだ」 それは、あなたが外側の人生に絶望したときにおこる。夢と希望に満ちているときにはおこらない。 りんごの果実が熟さないうちは、いくら樹をゆさぶってみても、りんごは落ちてこない。台風が来てもりんごは枝にくっついている。 しかし、時が来て、果実が熟せば、そよ風が吹いただけでりんごは地面に落ちる。実際のところ、風すら吹く必要はない。不動の静寂のなかで、りんごは枝からはなれる。 必要なのは内側から成熟することである。それに応じて外側の現象があらわれてくる。外側の条件は必須条件ではない。 人は、はじめ、外側のものをとおして幸せを得ようと努力する。そして、何年も一生懸命努力した結果、消耗感とともにひとつの理解を得る。 そうして、彼は外側から内側へ人生の形態――ゲシュタルト――を変化させる。 そんなとき、古今の師たちは、みな口をそろえたように同じことを言う。 「あなたの内側に入っていきなさい。外側の世界は夢の世界だ。眠りからさめなさい。そして、けっして消えることのない至福に目覚めなさい」 そのようにして、精神的(スピリチュアル)な世界が、あなたの目の前にあらわれてくる。探求の旅がはじまる。自分自身の内奥の核にむかって、森の奥深くに入っていく旅が・・・。 そうすると、あなたはそこに貴重な白檀の木を見つける。貴重な宝石を見つける。 そこにはきらきらと輝くなにかがある。 静けさのなかで、エネルギ−がいきいきと脈動する自分自身を見つける。 樹々とひとつになり、<自分>が消える状態を味わう。 まわりの草花や動物たちがささやきかける。 粗雑なできごとのなかに微妙なニュアンスを感知する。 不思議な人生の展開がはじまる。 精神的(スピリチュアル)な体験そのものが、あなたを導いていくだろう。心配する必要はまったくない。 探求の旅というものは基本的には自己変容の旅である。 それは玉ねぎの皮をむいていくプロセスに似ているので、「オニオン・ピ−リング・ヴィジョン」とも呼ばれる。 玉ねぎの表面の皮は茶色っぽくて堅いが、それをむいていくと、内側にいくにしたがってより白く透明に、柔らかくなっていく。 そして、あなたという存在の皮をむいていくと、同じようなプロセスがあらわれてくる。 あなたは粗雑な物質的(マテリアル)な世界の体験から、微妙で言葉で表現することのむずかしい精神的(スピリチュアル)な世界の体験のなかに入っていく。 ヨガでは、七つのチャクラ−エネルギ−の輪−を昇っていくというイメ−ジが用いられる。いちばん下にあるセックス・エネルギ−が変容されていって、ハ−トのエネルギ−になり、第三の目にたっして真理を洞察する目ができ、最後の蓮の門をとおって唯一無二のブラフマンと一体(ひとつ)になるという七つの段階(ステップ)が用意されている。 「禅の十牛図」では、いなくなった牛をさがして旅をするという構成によって、十の段階(ステップ)が用意される。 それは、さまざまな宗派によって、異なった概念として紹介される。だが、ひとつ共通することは、真理はいくつかの段階(ステップ)を通過してはじめて達成されるという考え方である。 「山がある。そして、山の頂上に到達しなければならない。そのためには、あなたは山を一歩一歩登らなければならない」というのが共通項である。 だが、登り方にはいろいろ違いがでてくる。 富士山には南側から登ることもできるし、北側から登ることもできる。西からも東からも登れるし、時間と体力をもてあましているなら、道なき道を東西南北縦横無尽に駆け巡りながら登ってもよい。どこから登っても、どのように登っても、たどりつくところは同じである。南側から太平洋を眺めながら登るのが好きな人もいれば、北側から富士五湖を眺めながら登るのが好きな人もいる。 それは、どちらかの道が他より優れているという優劣の問題ではない。 それは、コ−ヒ−が好きな人もおり、紅茶が好きな人もいるという次元の問題にすぎない。 どの道にもそれぞれユニ−クな味わいがある。 前のページに戻る |
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