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3ー海にかえる


海の聖者が魚たちに説法していた。
「私たちは、海によって生かされている。その海とはなにか、知らなければならない。それを知ったときはじめて、真のよろこびを得ることができるのだ」
一匹の魚がそれを聞いて、海を知りたいと思った。 海はよろこびの本源だという。それならその源泉を捜しあてて、真の幸せを得たい。
魚は海を探す旅にでた。 行く先々で、海を悟った師がいると聞けば、訪れて、教えを乞うた。
「海とはなんですか――?」 と魚がたずねる。
師は両手の平をさしだして、 「これだ!」 と言う。 しかし、手の上にはなにもない。
「なにもないじゃないですか?」 と魚が問うと、師はにっこり笑って、 「すべて、ここにある!」 と言う。
魚は理解できないが、礼を言って、そこを辞す。
別の師のところでは、こう問う。
「海はどこにあるのですか――?」
師は人差し指をたてて、 「ここだ!」 と言う。 魚は混乱するばかりだ。
こうして、彼は世界中の海を旅して、多くの師に教えを乞うた。 ある師は「祈りなさい」と言い、別な師は「瞑想しなさい」と言った。 問うと、いきなり棒で叩いて、「わかったか!?」と聞く師もいれば、なにを聞いても、黙って沈黙している師もあった。
何年も、何年も、魚の探求はつづいた。 さまざまな師を訪ね、有名な道場(アシュラム)で修行をつんだ。 うつくしい珊瑚礁の海に遭遇して、「これが海だ!」と思ったこともあった。 真っ暗闇の深海を探索して、「この静寂がそれだ!」とよろこんだこともあった。 しかし得たと思ったものはすべて、いつも、いつか消えてしまった。
魚はだんだん探求に疲れてきた。 不思議な形をした岩やうつくしい珊瑚礁、いろいろな海藻や貝類、大小の魚たち、海のなかの世界をいろいろ学んできた。しかし、海がなにかということはわからなかった。 何年も探しつづけたが、海は見つからなかった。 魚は消耗し、疲れはて、悲しみ、あせり、絶望していった。
あるとき、魚はおいしそうな食べ物を見つけて、ひょいと口の中に入れてしまった。 それは漁師の釣り針だった。魚は、海からぽ−んと釣り上げられてしまった。 生まれて初めて、海から出てしまったのだ。 突然、まったく見知らぬ世界に入りこんだ。全身を焼けつくような感覚がおそってきた。魚は、この危機から逃れようと、船板のうえで一生懸命もがいた。
漁師は煙草をくわえながら、魚の口から針をはずし、つぎのエサを用意していた。 魚は、死にものぐるいで暴れた。なにもかも忘れて、そこらじゅうを蹴りまくった。 空はぬけるような青空だった。 ばたばた暴れていると、なにかの拍子に魚の身体はぴょ−んと舟板をけって、また海のなかにぽちゃんと落ちた。
そのとき、魚は海を知った。


【コメンタリー】
これは真理を探し求める旅の話である。
生まれたときから海のなかに住んで、その外に出たことのない魚にとって、海を知ることはむずかしい。
それは、私たちにとっての空気のようなものだ。
空気のなかにいて、空気とはなにかかんじることはむずかしい。
それはどこにいても手に入るがゆえに、あたりまえになってしまう。
現代のように公害がひどくなってはじめて、あたりまえの空気が貴重なものとしてありがたがられるようになる。
50年前までは水を買って飲むなど考えられなかったが、いまでは普通になっているし、20年前にインドでミネラル・ウオ−タ−を買うのは外国人旅行者だけだったが、今ではインド人さえそれを買うようになってきている。そのうち、空気もボトルにつめられて売り出されるかもしれない。
空気は汚されるがゆえに、純粋な空気とはなにかということがわかる。
水は汚されてはじめて、きれいな水とはなにかということが意識される。
しかし、私たちは本源(ソ−ス)と片時も離れたことがないがゆえに、またけっして汚されることがないがゆえに、本源とはなにか知ることはたいへんむずかしい。
それなしで暮らしたことがないので、それと自分のあいだに距離をかんじることがむずかしいからだ。
なにものも、距離がなければ認識することはできない。
認識できるものにはすべて限界点があり、認識しようとするものの限界点とのあいだに距離ができてはじめて、認識できるのである。
哲学的にむずかしく言う必要もない。単純に言えばこうなる。
あなたの目は、目の前にあるあらゆるものを見ることができる。
しかし、自分の目を見ることはできない。
試してみれば、すぐにだれにでもわかる単純で不思議な事実だ。
鏡で自分の目を見ることができるじゃないか、と言うかもしれないが、それは鏡に映った反射を見ているのであって、目を見ているわけではない。実際には、鏡を見ているのだ。
だから、あなたの目はこれまでにあらゆるものを見てきたが、自分の目そのものを見たことはけっしてなかったし、これからもないだろう。
なぜなら、「見る目」と「見られる目」とのあいだに距離がないからだ。
同じことが、ほかの感覚器官にたいしても言うことができる。
耳はあらゆる音を聞くことができるが、耳そのものを聞くことはできない。
試してみるといい。
舌は毎日あらゆる食物を味わっているが、舌そのものを味わうことはない。
味わうためには、なにものも舌の上にのらなければならないが、舌が舌の上にのることはありえないからだ。
鼻はあらゆる匂いをかぐことができるが、匂いをかぐその源の匂いを識別することはできない。そこはニュ−トラルなゼロ地点である。
そして、触覚もまたそうだ。
たとえば、右手で石に触れればかたいとかんじるが、右手で右手そのものをかんじることは不可能である。右手のなかにある痛みや、電気的なエネルギ−や、空気の暑さ・冷たさをかんじることはできる。だが、それらは右手のなかやまわりにある何かであって、右手そのものではない。
ひとつひとつ自分で確かめてみることが大切だ。
感覚器官は、この肉体(ボディ−)と心(マインド)が二元性の世界で生き延びるために与えられたセンサ−だ。
それはブッダによって5頭だての馬車にたとえられる。
五つの感覚器官が5頭の馬であり、肉体が馬車であり、心がぎょしゃである。 そ
のすべての目的は、馬車のなかにいる主人を無事に送り届けることにある。
主人とはだれだろうか?
――それは、あなたの本性だ。
それは神とも呼ばれ、真理とも呼ばれる。
真我とも呼ばれ、本源とも呼ばれる。
言葉の違いに惑わされてはならない。古今の多くの師たちが、自分の悟りを表現するのにもっとも適当な言葉を選び、用いたにすぎないからだ。
このような表現のことを「月をさししめす指」であるという。
それらの言葉は、地球上のさまざまな地点からひとつの月をさししめしている多くの指である。ひとつひとつの指の違いに惑わされてはならない。指は重要ではない。それぞれの指がゆびさすさきには同じひとつの月がある。同じひとつの真理がある。それが重要なのだ。
それを実現するためには、探求の旅に出なければならない。
それは不思議な旅になるだろう。なぜなら、それはすでにあるものを探し求める旅になるからだ。
海から生まれ、海で育ち、海に暮らしている魚が、海を探す。それは不条理な旅にならざるをえない。同時にこれほどすばらしい旅もない。
魚はあるとき海からはじきだされ、そして舞い戻ったとき、海を知った。
これをディバイン・アクシデント――聖なる事故――という。なぜなら、それは魚の努力によって達成されたものではないからだ。
それは存在そのものによって用意された、もっともすばらしい贈りもの(ギフト)だ。

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