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25―ほんとうの仕事


ブッダの弟子たちは、毎晩、眠るまえに瞑想するのがつねだった。夜の講和が終わると、彼らはそれぞれの場所に戻って、眠りがやってくるまで静かに瞑想する。それが弟子たちの慣習だった。
しかしブッダは、講和のあとに、「さあ、各自の場所に戻って瞑想しなさい」という言い方はしなかった。そのかわりに、彼はこう言った。
「語るべきことは語った。さあ、行って、あなたのほんとうの仕事(ワーク)をしなさい」
ある晩、ひとりの泥棒と娼婦が、ブッダの講和を聞いていた。そして、泥棒はブッダの言葉に驚いた。
「なんてことだ! これだけ多くの人のなかに隠れているのに、この人は私の仕事について知っていて、しかも、寝るまえにほんとうの仕事をやりなさい、と指示している」
泥棒の心に、ブッダの言葉が強烈な印象となってのこった。
そして、娼婦もまた、泥棒とおなじように驚いていた。ブッダが彼女に気づいていると同時に、彼女が娼婦で、ほんとうの仕事は夜なされることを知っているのが信じられなかった。
「この人は驚異だ――この比類なき明晰さと洞察力!」
翌朝、ふたりはゴータマ・ブッダに会うためにやってきた。
「どうしたのかね?」
と、ブッダがたずねた。
泥棒がこたえた。
「あなたにはなにひとつ隠せません。盗みは昨夜が最後です。あなたは盗みをやめろとは言わずに、それどころか、『行って、あなたのほんとうの仕事をやりなさい』と言いましたね。そのあと、私は自分に問いかけました――私は人生を浪費していないだろうか? これほどの<意識>が可能だというのに・・・そうして、あなたは私を変えてしまったようです」
そして、娼婦も言った。
「私はもうこの仕事をやめました。あれほど多くの面前で『さあ、行って、ほんとうの仕事をやりなさい』と言われるとは思いもしませんでした。私はもうどこへも行きません。いまや、私のほんとうの仕事はあなたの足元に座ることです」
ブッダが驚いて、言った。
「なんということだ! 『ほんとうの仕事』とは私の弟子たちに言ったことで、あなたがたに言った言葉ではないのだよ」
彼らは口をそろえて言った。
「私たちをだまそうとしないでください!」
そして、ふたりはブッダの弟子になった。以来、ブッダはこのできごとをよく話すようになったという。
彼は言った。
「あなたがどう理解するかを知るのはむずかしい。しかし、これだけは確かだ――あなたが聞くことと私が言っていることは、けっして同じではないだろう。私はひとつのことを話す。そしてそれをどう聞くかは、あなた次第だ。それをコントロールすることは、私にはできない」


ひとりの師がひとつの真実を話すとき、そこに十人の人間がいれば十の投影がなされて、十の像(イメージ)が創りだされる。
ブッダが「ほんとうの仕事をしなさい」と言うと、それを聞いたブッダの弟子たちは瞑想し、それを聞いた泥棒は盗みに入り、それを聞いた娼婦は客をとりに走る。
マインドはそれぞれ自分のつくりあげた枠組みにしたがって理解しようとするから、ひとつの事実は実際には人数分の事実にすりかわってしまう。
たとえば、私が「黄色い乗用車を見た」と十人の人に言えば、それを聞いて彼らが想像する色と形は、私が見た色と形とは微妙に異なったものになっているだろう。
マインドが介在するところでは、つねにこの「思い込み」と「投影」というものが真実をゆがめて、世界をおもしろく愉快なかんちがいに満ちあふれさせる。
それが、この地球上に何百何千という師を生み出さざるをえない基本的な理由である。
人々はそれぞれがかけているサングラスの色によって、あの師はだめだが、この師はすばらしいという判断をくだす。偉大なブッダといえども、同時代にはジャイナ教のマハヴィーラという巨人をはじめ、ウパニシャッドに出てくるような師たちが、異なった教えを説いていて、人々はみずからの好みにしたがって、それらの師のあいだを遊行していたのである。
それは人々がそれぞれの資質にもとずいて、異なった道にひきつけられるということを如実にしめしている。
ブッダにはじまる悟りの系譜のなかで、人々が悟った瞬間の物語りを読むと、それらもキツネにつままれたような話ばかりだ。
庭掃除のときに、ほうきで飛ばされた小石が竹に当たった音を聞いて悟ったとか、畑仕事をしていて、くわを降りおろした瞬間悟って、万歳しながら走り去ったとか、一休の大悟のあとの詩をを読んでも、実際にはなにがおこったのかはさっぱりわからないようになっている。
わからないのは、その瞬間におきたイベントのほうに、なにか意義深いものを捜そうとするからだ。
古今東西の光明を得た探究者にその瞬間おこることは、ブッダからクリシュナムルティにいたるまでまったく同一である。真理は永遠で変わることがない、それに浴するのだから、もしだれかがユニークな光明を得たと言ったならば、それは真理ではないことになる。
真理はひとつである。だから、この一瞬は全員に同じことがおこる。ここではユニーク性は問題にならない。ユニークさが出てくるのは、次の段階からだ。
この時間を超えた体験ともいえない体験を、ある人々はそれがマインドにどのように映ったのか、語ろうとする。
カビールは、「それは一滴のしずくが大海に落ちるようだった」と表現した。これはカビールのユニーク性である。
そして、パタンジャリは、「蓮の花が無限に開きつづけるようだ」と言った。
同じ真理の体験がマインドのレベルに降りると、すでにこれほどまでにちがってきてしまうのだ。
般若心経では<空>と言い、ウパニシャッドは<すべて>と言う。
それは同じ夕日が落ちるのを見て、十人の詩人が十通りの異なった表現をするようなものだ。表現は十通りあっても、夕日が落ちていく光景はひとつであり、それをこの十人の詩人たちは知っている。それが同じものであることを知っている。そのうえで、表現の妙味をほめたりけなしたりするのだ。
師たちもまた真理はひとつであることを知っている。そして、なおかつこれほどの表現のセンスのちがいをほめたりけなしたりするのだ。
それらはマインドがもつ詩的感性のちがいであり、それが異なった人々にアピールする。しかし、彼ら自身は、それが同じ体験の異なった表現法にすぎないことを知っているのである。
問題は、これが弟子たちのマインドにとどいたときにはじまる。
もともとは単純なものが、ここから複雑でむづかしいものになってくる。
カビールの弟子が師の話を聞くと、自分という一個のしずくがぽとりと海に落ちて大海とひとつになり、しずくは消えてなくなる、というイメージをもつ。
一方で、パタンジャリのヨガ・スートラを読む人々は、修行の結果あるとき自分のなかの第三の目が、蓮の開花のように無限に開きつづけるというイメージをもつ。
そして、彼らはそれぞれのイメージにそうような体験をもとめて修行するのだ。
同じ体験がこれほどちがってくる。
ひとつの夕日が落ちるのを実際に見て、それを表現している人は理解できるが、そこにいなかった人たち、夕日が落ちるのを見たことがない人たちは、師たちの百八十度ことなる説法を聞いて、ますますわけがわからなくなり、わからないままとんでもない空想の産物をつくりだし、それにむかって進んでいく。
ゴータマ・ブッダが死ぬとき、アナンダはブッダの教えを後世に残すために、その言葉を編さんしようとしてブッダにたずねた。そのとき、ブッダはこの逸話を話して、ブッダの話したこととアナンダが聞いたこととは同じものではない、と言ったという。
アナンダはのちに光明を得て、弟子たちの開いた第一結集に参加したが、そのとき、かならず最初に、如是我聞――私は覚者がこのように話すのを聞いた――という言葉を使った。
それによって、彼は「これを話したのはブッダであって私ではない」と自分の位置をはっきり否定しながら、「これは私がブッダから直接聞いたのだ」と言って、教えの正当性を宣言している。そして、同時にもうひとつ、「これはあくまでもブッダの言葉を通して私が理解したことであって、ブッダの言葉の意味をそのまま伝えているかどうかはわからない」という真実を正直に表明しているのだ。

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