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24―嘘と方便


ゴータマ・ブッダと弟子のアナンダが、ある日、町にむかって歩いていた。
彼らは途中で道に迷ったらしく、日没の時刻になっても町には着かなかった。アナンダはしだいに不安になってきた。ブッダは年老いた身で、しかも病気だった。それにもかかわらず、一日中歩いている。彼には夜ゆっくりと休めるところが必要だった。
ちょうどそのとき、道のかたわらでまきを集めているきこりがいた。
アナンダが彼にたずねた。
「町まではどれくらいあるかね?」
きこりが言った。
「心配しなさんな。せいぜい二キロってところでしょう」
きこりの言葉は、アナンダに新しいエネルギーを与えた。
ブッダは微笑んだ。アナンダは、なぜブッダが微笑んだのかわからなかったが、すでに疲れていたので、そのままにしておいた。
それから、彼らは二キロ以上歩いた。しかし、町が近づいたようすはなかった。あたりは薄暗くなりはじめていた。道のわきに一軒の農家があったので、アナンダがそこにいた老婆にたずねた。
「町までどれくらいあるかね?」
すると、老婆が言った。
「あと二キロ、ここまでくれば着いたようなもんじゃ。もうちょいと頑張りなされ!」
アナンダがつぶやいた。
「さっきの男も二キロと言い、またこの老婆も二キロと言う」
ブッダがまた笑った。そして、言った。
「たぶんそうなのだろう。あと二キロ、歩くとしようか」
そして、二キロは歩いただろう。だが、依然として町は見えなかった。アナンダはますます不安になっていった。
ちょうどそのとき、むこうのほうからひとりの男が歩いてくるのがみえた。
彼なら町までどれくらいか知っているにちがいない、彼は町のほうから歩いてきているのだから・・・、アナンダはいきおいこんで彼に声をかけた。
「町まであとどれくらいあるかね?」
男が言った。
「どれくらいかですって? そうですね、ちょうど二キロってとこでしょう」
それを聞くと、ブッダがまた微笑んた。
「もうたくさんだ! 」とアナンダが叫んだ。「このあたりの人たちはほんとうに奇妙だ。だれもがあと二キロだと言う。だが、そうやって、我々はもう四キロ以上も歩いた。そして、それでもまだ二キロだと言う。そして、あなたは笑っている。あなたは、私が不安になるをの笑っているにちがいない!」
ブッダが言った。
「アナンダ、おまえはわかっていない。これこそ、私が生涯ずっとしてきたことなのだ。ここの人たちはたいへん慈悲深いにちがいない。彼らは、二キロではないことを知っている。しかし、そうやって私たちを四キロ先まで進ませてくれた。彼らは嘘を言っている。だが、その嘘は慈悲以外のなにものでもない。だから、私は笑っていたのだ。おまえを笑っていたのではない。私は、これこそ私が生涯してきたことだと思って、笑っていたのだよ。 人々が、光明はどれくらいさきにありますかとたずねると、私は『あと二キロだ、もう少しだ』と言う。そして、それはつねにあと二キロだ。しかし、それによって人々は、旅を続けることができる。彼らは近づきつつある。だが、あと二キロ・・・それはつねに変わらない。ここの人たちはとても慈悲深く、しかも人間の心理をよく知っているようだ」


旅を始めると、最初のころは、見るもの聞くものみなものめずらしく、さまざまなものを積極的に体験して、その目新しい味わいに舌づつみをうつことになる。
それは、子供がはじめて遊園地に連れていかれたときのようなものだ。子供は目を大きくキラキラ輝かせて、そこにあるすべてのものを次から次へとトライしたがるだろう。
しかし、翌日もそこへ行ったらどうだろうか。そして、次の日も、また次の日も、毎日そこに行きつづけたならどうなるだろうか。
おそらく、一ヶ月後にはあまり興味を示さなくなるだろう。一年後にはもう行きたくなくなってしまうだろう。
スピリチュアルな旅も、長いスパンで、これと似たようなプロセスをたどる。この道に入ってきた新入生にたいして、存在は最初にすばらしい内なる体験を供給する。それは存在からの贈りもの(ギフト)だ。
そして、いずれにせよ、旅のはじまりというものは楽しいものだ。あなたは期待に胸をふくらませ、純粋で、あらゆるものが新鮮に心をよろこばす。
そういったとき、通常、そこには「技法」というものが用いられている。
祈りの儀式も、奉仕の行も、ハタヨガなど肉体の練磨も、マインドやエナジーのワークも、神秘学やセラピーも、経典を学ぶことも、瞑想することも、それらはすべてスピリチュアル・ディズニーランド――「精神世界」遊園地――に配置されている豊富なイベントのひとつであり、探究者たちは自分のハートに訴えかけるイベントの切符を買って、なかにはいるのである。
あらゆるものを次から次へとやってみたがる子供もいれば、同じジェットコースターに何回も乗りつづけたがる子供もいる。
同じように、精神世界の探究者たちも、自分のなかにあらかじめセットされたプログラムを消化・解消していくというプロセスにしたがって、ひとつの道だけを歩く者もあれば、ときにおうじて、いくつかの道を歩く者もある。
ガンジス川は、ヒマラヤの氷河がとけて、ガンゴトリから吹きだすところから始まり、数千キロの旅をして海にもどる。
最初のころ、ヒマラヤの谷間を流れているときには、そこらじゅうにころがる大小の石によって大きな音をたてているものだ。しかしバラナシを通過するころには、深い大河となって音もなく静かに流れている。
川が浅くて、石がたくさんあるときには大きな音をたてる。だが、石がなくなり、川が広く深くなるにつれ、音は消えていくのだ。
あなたの旅は、この音をつくりだしている石をひとつひとつ取り除いていくようなものだ。石というのはあなたの過去によってつくりだされた精神的・肉体的なかたいシコリのことであり、技法というのはそのシコリを溶かしてなくす特定のテクニックである。その仕事(ワーク)は、石の形状、川の広さ、周囲の状況によって臨機応変になされなければならない。なぜなら、あなたはユニークだからだ。したがって、あなたの石もユニークだ。
ブッダが、大量生産装置のベルトコンベアーから誕生することはけっしてない。
存在はひとりひとりに特有な道を用意している。過去におこったことは参考にならない。
あなたは、あなたのためにだけ用意された道によって、探究の旅を完結するだろう。それはすばらしく豊かで、創造的だ。
いずれにしても、旅は基本的に石を取り除くだけである。なにか新しいものをもたらすということはない。
新しい状態を得たとかんじるのは、ひどい偏頭痛が何ヶ月もつづいたあと、あるときふっと消えたときのすがすがしさに似ている。そこでは、実際のところ、なにか新しいものを得たわけではない。頭のなかのシコリが溶けただけである。
だから、なにか新しいものを得なければならないと悩む必要はないのだ。
これは「吉報」である。
なぜなら、ものごとが単純になる。
そして、真理はつねに<単純>で、<楽>である。複雑でむずかしくなってきたら、かならずそこにはマインドの影があると思ってよい。
石が取り除かれていくにつれて、川そのものは変わらないが、あなたのなかの騒音がひとつひとつ消えていく。あなたそのものはかわらないが、あなたの周囲にあるさわめきがひとつひとつ消え去っていく。
それは静かなよろこびである。
しかし、旅は長い。
幾世にもわたって創りあげられ、文化として、伝統として継承されてきた条件づけ(コンディショニング)を、二年や三年で解消するのはむずかしい。
たとえば「鈴木一郎」という名前をもった、個人としての条件付けがある。
男と女という肉体と性に付随する条件付けがある。
黒・白・黄色という人種の色にたいする条件付けがある。
そして、動物界のなかの人間としての条件付けがある。そうやって複雑にからみあった蜘蛛の巣が縦横無尽にはりめぐらされている。
だから、一日トレッキングしたくらいでは目的地には着かない。
一日中歩きつづけて、疲れてきたところから、ほんとうの旅がはじまるのだ。
そのとき、あなたには師が必要になる。道を知りつくしたガイドの励ましが必要になる。
そして、彼らはつねに、「あと二キロだ!」と言う。
それは、あなたが旅を途中でやめてしまわないためのトリックだ。
それは、あなたがもう少し旅をつづけるための嘘だ。
この嘘は、あなたに人生で最良のものを与えようという意図にもとずいている。
通常、嘘を言うときには、嘘を言う人の利益のために使われるものだ。
しかし、師が嘘を言うときには、嘘を言われる人の利益のために使われるのだ。
この嘘は、通常の嘘とは質的に異なっている。したがって、このような嘘のことを「方便」と別な言葉で呼ぶのだ。
この方便は、唯一師が特定の意図のもとに用いるときにのみ、方便と言うことができる。
いくら良い意図をもっていても、真理に目覚めていない人が言う嘘は嘘であって、方便ではない。道そのものを知らない人が山を案内すれば、ふたりともけものみちのなかに迷いこむのがおちだ。そういうときには方便と呼んではいけないのだ。
頂上にいたる道は、ときに一見迷い道のように見えるときがある。また、道を知らないものにとっては、容易に迷い込んでしまうような別れ道がたくさんある。しかも、すでに何年も何年も歩きつづけて疲れているのだ。
そんなとき、ただ「頑張れ!」と励ますだけでは、じきに効かなくなってしまう。そんなときこそ、新しい元気が出てくるようななにかが必要なのだ。
そのつど、師はあの手この手を使って、消耗した弟子のマインドに新鮮な風を吹き込もうとする。
実際、偉大な師というのは、ある意味ではうそつきの天才たちである。
彼らが方便を使うと、弟子たちはそのつどコロリとだまされて、またふたたび道を歩みつづける。だます師のほうも天才なら、そのつどみごとにだまされる弟子たちのほうもたいしたものだと言ってよいのかもしれない。
それは、どちらにせよ、すばらしい芸術(アート)である。
しかし、すばらしい芸術(アート)であろうとなんであろうと、究極的には嘘はやはり嘘である。
ブッダはつねに「あと二キロだ!」と言う。どんなに進みつづけても、それは変わらない。ブッダの仕事(ワーク)は、弟子たちが道を進みつづけることにある。彼はつねに、「チャリバティー、チャリバティー!」と言っていた。進みつづけなさい、という意味だ。そして、それを信じて歩きつづけているうちは、いつまでたっても「あと二キロだ!」。
そして、あるとき、もう師がなんと言おうとそれ以上進めなくなるときがやってくる。
道は消えてなくなる。そして、道がなくなるとともに、師も消えてなくなるときがやってくる。方便はもう効かない断崖絶壁だ。
道がなくなる最後のところにはジャンプ台がある。あなたはジャンプする。というより、そこでもう一歩踏み出せば、その瞬間あなたは落ちることになる。虚空のなかを、いままでの旅で登ってきたぶんだけ、落ちていくことになる。
そのとき、努力はいらない。あなたの努力は終わっている。あなたの期待は消えている。
そのとき、あなたはマインドが創りだす幻想にたいして「もうたくさんだ!」と宣言しているのだ。
実際のところ、どこにも落ちているわけではない。頂上にむかって登っているという思い込みの反動で、それが消えたとき落ちるとかんじるだけのことだ。
そして落ちれば、そこはかならず海である。本源(ソース)である。実際には、最初から最後までづっとそこにいたのだが・・・。
そのとき、そこでは努力はいらない。なぜなら、どこにも行く必要がないからだ。なぜなら、そこが目的地(ゴール)だからだ。
あなたは、ここが我が家だと知る。あなたは、これが至福だと知る。方便によって励まされながらやってきた体験のひとつひとつが、それらはすべて真理ではなかったという理解と了解をもたらす。
もはや、「<いつか・どこか>でなにかを得る」という幻想はない。
ただ静かに、やすらかに、川が流れている。
海にたどりつかなければならないという想いが消え、私の本性は<いま・ここ>にある、水という本質のなかにすでに達成されているというポイントが腑に落ちたとき、あなたはもはやどこへも行く必要がなくなる。どこかへ行くことと、どこへも行かないこととのあいだにある違いが消えてなくなる。
海についてもよし、湖についてもよし、蒸発して雲となってもよし、あるがままに<いま・ここ>でおこっているイベントを、ただ静けさとともに見守る。
方便は幻想があるときにのみ機能し、絶望が極点にたっしたときに仕事を終わる。
ブッダは、それまでの苦行に別れをつげ、方便の世界からあるがままの世界にくつろいだ。そのとき、そこにあった菩提樹が季節はずれの花を咲かせたという。

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