スパイスがいっぱい |
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21−魚売りの女ひとりの女が魚を売りに町へやってきた。彼女は漁師の妻であった。自分の持ってきた魚を全部売ってしまったあと、彼女は偶然昔の友人に再会した。 彼女たちは学校時代をともに過ごした仲だった。友人のほうは裕福な家の娘で、その後いつのまにか行き来がとだえていたのだ。 一緒にお茶を飲んだあと、友人は彼女に一晩泊っていくように招待した。友人は大きな家に住み、庭には色とりどりの花が咲いて、かぐわしい香りをはなっていた。 夜、こころゆくまで語りあかしたあと、友人は寝床の用意をし、部屋のなかにたくさんバラの花をかざった。 しかし、漁師の妻はいつまでたっても眠ることができなかった。彼女が何度も寝返りをうつので、となりで眠っていた友人も目をさましてしまった。 「どうしたの。眠れないみたいね」 と、友人が声をかけた。 「ごめんなさい。でも、花の香りが気になって眠れないのよ。魚をいれるカゴと布をここに持ってきていいかしら? それに水をふりまいて、バラの花をとりのぞけば、眠れると思うから・・・」 バラを外に出し、汚れたカゴと布に水をふりまくと、部屋は魚の匂いでいっぱいになった。カゴを枕元におくと、彼女は幸せそうに眠りのなかに落ちていった。 これはカリール・ジブランの物語りであり、古今の師によって語り継がれている話のひとつである。それはこのなかに日常生活−サバイバル−と精神性−スピリチュアリティー−の対比がクリアーに描き出されているからだろう。 魚の匂いは日常生活をあらわし、バラの香りは精神性を象徴している。 漁師の妻にとって魚の匂いは生活そのものの匂いであり、もっとも好ましい匂いだ。なぜなら、魚の匂いは彼女と子供たちのサバイバルにとって必要不可欠なものであり、その匂いが強ければ強いほど彼女の生活は安楽になっていくからだ。彼女は強烈な魚の匂いによって、サバイバルの不安から解放され、心の奥がほっと一息ゆるむのである。他人にとっては悪臭であっても、彼女にとっては好ましい匂いなのだ。 それは魚の匂いにかぎらない。 それは、ある人にとっては酒の匂いであったり、金の匂いであったり、セックスの匂いであったり、権力の匂いであったりする。 あなたもまた日常生活のなかに埋没して、そこから抜けきれないでいるなら、それは多かれ少なかれ、なにかの匂いのとりこになっているということだ。だから、そこから脱することができないのだ。 青くすみきった大空を、上昇気流にのりながらゆったりと飛ぶトンビやタカなどを見ていると、たいへんうつくしく優雅にさえみえる。しかし、実際のところ、彼らの目は餌になるネズミやカエルなどを捜しもとめて、どぶ川や泥沼ばかりを見ているのだ。彼らは大空の広さや、谷川のうつくしさに目をとめることはない。見えてはいても、けっして見ることがないという奇妙な現象がおこる。むしろ、バラの香りが漁師の妻を落ち着かなくさせる、という奇妙な現象がおこるのだ。 バラの匂いに目覚めるためには、サバイバルの匂いがまず満ち足りなければならない。 まず最初に、必要は満たされなければならないのだ。そして、そのうえで、欲望というものを理解しなければならない。なぜなら、マインドの欲望には終わりがないからだ。そして、そのなかで悪戦苦闘することをサムサーラという。 あなたという知性(インテリジェンス)が、いつかこのプロセスの不毛性に気づくまで、サムサーラはつづく。あなたは、必要と欲望のあいだの境界線をはっきりと見なければならない。 匂いといえば、それぞれの国には特有の匂いがある。 空港から街にはいるまでのあいだに、その匂いははっきりとしてくる。 タイは暑い国のせいか、いろいろな食べ物がミックスして発酵したような、ちょっと甘くすえたような匂いがする。中国に降りたときには米をたいたときのような匂いがし、韓国ではキムチの匂いがした。そして、インドは、いろいろな香料がふんだんにまぜこぜになった「マサラ」の匂いだ。 私は日本には特定の匂いがないと思っていたが、あるとき日本に行ったことがあるインド人にそのことを話したら、 「とんでもない、日本はどこに行っても魚臭いよ!」 と言っていた。彼は何世代にもわたる生っ粋のヴェジタリアンだから、なおさら魚の匂いにはへきえきしたことだろう。しかし、その後も、私にはそれほど魚臭いとは思えない。 してみると、自分の国の匂いは、その国の人には識別できないのかもしれない。 ときおり、インド人とすれちがっただけで、身体全体から発散するマサラの匂いに、一瞬息をつまらせることがあるが、案外日本人とすれちがった外国人も魚臭さにウッと息をつまらせているのかもしれないのだ。 そういえば、また別なインド人と食べ物について話していたときに、 「インドのレストランには何十種類ものメニューがあるが、実際にはカレーしかない。そのなかにジャガイモがはいっているか、ナスがはいっているか、トマトかカリフラワーかというちがいにすぎない。つきつめて言えば、インドにはカレーという一種類の食べ物しかないようなものだ」 と私が言うと、彼は、 「日本も同じだよ。野菜炒め、肉じゃが、おでん、焼き鳥、すし、てんぷら、なんだかんだ言っても、全部ショーユ味だ。日本にはショーユ料理一種類しかないようなものだ」 と反論してきた。なるほど、言われてみればそのとおりで、二の句がつげなかった。 日本にいるとあたりまえのことが、外に出てみるとあたりまえでもなんでもなくなってくる。 インド人にとってはあたりまえのインド料理が、私にとっては爆弾のような辛さで手も足もでない、あの辛さは人間の神経を麻痺させるのではないだろうか、と思うほどだ。 同じように、多くの外国人は、刺身や寿司というものを奇異な目で見る。まず、魚の生肉を食べるということ、それから、その料理が熱くない、むしろ冷たいということ、こういったことは彼らの常識を逆なでするようだ。 日本では麻薬といわれている大麻が、アムステルダムでは煙草と同じ嗜好品としてコーヒー・ショップで売っていたり、また反対にイスラムの国々では禁止されているビールやウイスキーが、日本ではミルクやジュースなどと同じように平然と売買されている。 こういったことを見ていくと、ひとつの世界のなかであたりまえの「常識」が、より広い世界に出てみると、実はひとつの条件づけにすぎないということがよくわかる。 前のページに戻る トップに戻る |
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