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18−オカルト・パワー


ひとりのサドウーが、超常現象をあやつる力をもった。 彼はそのオカルト・パワーを自慢して、ときには他人のまえでそれをやってみせた。しかし彼自身は素朴で純粋な心の持ち主で、苦行をつづけながら簡素な生きかたをしていた。
ある日、神がひとりの聖者に姿をかえて、サドウーのもとへやってきた。
「あなたは偉大なオカルト・パワーをもっているとききましたが、ほんとうですか?」
サドウーは聖者をやさしく迎え、自分のとなりに座るようにうながした。 そのとき、一頭の象が近くを通りすぎようとした。
聖者が言った。
「あの象を殺すことができますか?」
「たやすいことです」 サドウは土のひとかたまりをつかんで、呪文(マントラ)をとなえてから、象にむかってそれを投げつけた。すると、象は突然もがき苦しみ、そのうちに倒れて死んでしまった。
聖者が言った。
「すごい。象が死んでしまった!」
「造作もないことです」 とサドウーは愉快そうに笑った。ふたたび、聖者が言った。
「それなら、この象を生き返らすことはできますか?」
「それもできます」
サドウーは別なひとかたまりの土くれに呪文をとなえてから、それを象にむかって投げつけた。すると、象の体がぴくぴく動きはじめ、やがてむっくりと起き上がった。
聖者が言った。
「すごい力(パワー)だ。しかし、ひとつ質問してもよいかな? あなたは象を殺し、またそれを生き返らせた。しかし、それがあなた自身になにをもたらしただろうか?  それによって<至福>を得たのかね? そして、神を知ることができたのかね?」
そう言って、聖者はふっと消えてしまった。


  スピリチュアルな世界のなかで、つねにちらちら見え隠れしているものに、このオカルト・パワーというものがある。
オカルト・パワーとは超常現象をつかさどる力のことで、一般的には超能力のことだが、それが精神世界・宗教的な領域で使われると、このような呼び名を頂戴することになる。 もともとは「神秘的な力」という意味だが、一般的には「魔術的な力」というニュアンスをもって用いられる。
人が精神世界に足を踏み入れるとき、そこにある根本的な動機というものは、「けっして消えないよろこび」を手に入れたいという思いだ。そして、このよろこびは、ほんとうの自分を知ることによって成就される。 それがはっきりと意識化されていようといまいと(通常は意識化されていないが)、精神世界にはいる百人のうち百人がこれを求めている。 ほんとうの自分を知ることと、超能力的な力を得ることのあいだには、直接的にはなんの関係もない。 それが探求の過程で、落とし穴に落ちるように、このパワーというもののとりこになっていく。それはひとつの迷いにほかならない。
ある人たちは、結跏趺坐(けっかふざ)をしたまま床から1メートルほど浮くという。実際にはジャンプするらしいが、座ったままジャンプするのだから、それはそれでたいした能力である。 しかし、それが精神的に尊い価値を持つとはいうことはありえない。 走り高跳びで2メートルをジャンプするのがすばらしい能力であるのと同じ質において、座ったまま1メートルほどジャンプするのはめずらしい能力ではあろう。 しかし、それは精神的な成熟度とはまったく別なものだ。
なぜこんなことが霊的パワーのようにもてはやされるかというと、結跏趺坐という精神的なひとつの技法が、ジャンプするというスポーツとむすびついたからだ。
マサイ族の男たちには、立ったままどれほど高くジャンプできるか競い合いながら楽しむという遊びがある。スリムで長身なマサイたちがジャンプする姿は、優美でうつくしい。 しかし立ったままどれほど高くジャンプしたからといって、それで部族の師として尊敬されるような類いのものではない。 座ったまま1メートル、ジャンプできる人が、走り高跳びで2メートル、ジャンプできる人や、棒高跳びで4メートル、ジャンプできる人たちと同様に、その努力と能力を賞賛されるのは結構なことだ。 どんなスポーツでもきわめていけば肉体だけでなく、精神力というものも必要になってくる。だからそこで座ったまま精神統一して1メートル、ジャンプすることと、精神統一して走って2メートル、ジャンプすることのあいだに基本的な相違はない。 しかし、どちらにしても、それらは真理とはなんの関係もないものだ。
あなたの本性はけっして動くことがない。 したがって、「真理は不動である」という。 それは、歩いたり、座ったり、あるいはまた、横になったり、縦になったりするようなものではない。いわんや、1メートル浮いたり沈んだりするようなことはありえない。 その根本を見逃して、枝葉末節にあくせくするのは迷いの世界であろう。
もうひとつの物語りを紹介しよう。  

その家にはふたりの息子がいた。 長男は若いときに世を捨ててサドウーになった。 次男は教育をうけ、世間で生きた。彼は結婚し、両親の面倒を見、社会的な義務を立派にはたした。
20年後、兄は巡礼の途中で生まれ故郷の近くを通った。そして、実家に立ち寄った。弟は兄との再会をよろこび、さっそく祝宴が用意された。 ごちそうを食べながら、兄弟はおおいに語りあかした。それから、弟が兄にたずねた。
「兄さんは世間を捨てて、長いあいだ修行してきたけど、それによってどんなものを得たのですか?」
「見せてあげよう。ついてきなさい」
兄は近くの川に弟をつれていった。それは川幅が5〇メートルほどもある大きな川だった。
「見ていてごらん」と言うがはやいか、兄はそのまま水の上を歩いて、向こう岸まで渡ってしまった。弟は1ルピー払って、舟で川を渡って、兄のところにやってきた。
「見たかね?」と兄が言った。
「なにを見たかですって?」と弟が聞き返した。
「水の上を歩いて渡ったのを見ただろう?」と兄が自慢げに言った。
「兄さん、私も川を渡ってきたのを見たでしょう――1ルピー払ってね。兄さんが20年間の修行で得たものというのはこれだけですか? たった1ルピーで得られるものしか達成しなかったというわけですか!」  

なにもないところからなにかを出してみたり、水の上を歩いたり、死者を生き返らせたり、川の水をワインに変えたりする人たちがいる。いわゆる、奇跡を起こす人たちだ。 しかし、それらはすべて手品か魔術のたぐいである。
あるとき、ハリドワ−ルで、ひとりのサドウーが私を呼び止めた。彼はひとつかみの土くれをこねて、そこから素焼きの小さな神像を出してみせ、喜捨(バクシーシ)を要求した。 私は気が進まず、「ノー」と言って立ち去った。手品を使って、自分を神の使者のように印象ずけようという魂胆がうさんくさかったからだ。 このような手品師まがいのサドウーが、インドにはたくさんいる。
サイババという有名な聖者は、なにもないところから牛の糞の粉を取り出して、人々の頭の上にふりかけるのだそうだ。牛はインドでは神の使者だから、その糞をパウダーにしたものは神の恩恵だというわけだ。 しかし、まず第一に、なぜそんな安っぽい<奇跡>をおこさなくてはならないのだろうか? しかも、それが牛糞のパウダーでは衛生的に言っても、あまりぞっとしたものではない。 どうせ出すなら水晶とかダイヤモンドの粒とか出したらよい。 私は1977年頃から現在まで、その半分以上の時をインドで過ごしているが、このようなはったりをかまして人の注意をひこうとする師(グル)のところには行く気がしないので行ったことはない。 実際に行ったことのある何人かの友人たちも、近くで見るとサイババが袖のあたりから牛糞パウダーを取り出すところが見えてしまうのだそうだ。ばかばかしいかぎりである。
私は神像を出したり、牛糞パウダーを出したりするのがいけないといっているわけではない。ただ、手品と真理とを混同してはいけないと言っている。 「信じれば救われますよ」と利益をえさに釣る者も、「信じなければ身の破滅がやってくるぞ」と脅して信者を得ようとする者も、それらはみな人の心の弱味につけこむ寄生虫であり、ペテン師である。
ほんとうの自分自身を知りたいということは、超能力を得て、ほかの人間がなにを考えているか透視できたり、東京とニューヨークに同時に現れてみたり、 呼吸や心臓の鼓動をとめることができるなどということとは、まったく次元を異にするものだ。
あなたの本性は、だれかによって与えられたり、奪われたりするようなものではない。 奇跡と言うならば、毎年春になると桜の花が咲くこと以上の奇跡がほかにあるだろうか? 朝になると鳥がさえずり、太陽がのぼり、季節になると果実が熟し、年月がたつと種が絶滅したり、新しく生まれたりする。 このような奇跡から見たら、人の行なう奇跡など、のみのジャンプにすぎない。
そうして、あらゆるできごとがおこりながら、そのどれにもけっして触れられることなく、つねに純粋なまま、どこにも動くことなく、増えたり減ったりせず、満ち満ちているあなたの本性は、 いかなるジャンプともかかわることなく、たえず至福にあふれている。 これが法である。 そして、この法に目覚めると、そこには悦(よろこ)びがある。
ここでは、奇跡も超能力も必要としない。あるがままの<あなた>であれば、それで十分だ。

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