スパイスがいっぱい |
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17−二人のヨギナラダは偉大な聖者である。 あるとき、森のなかを歩いていると道のわきに大きな蟻塚があった。蟻塚とは、蟻が土のなかに巣をつくるとき、その土を外に運び出すためにできる小さな丘のようなものだ。 しかしそこにあるものは、かなり大きな盛り土だった。 よく見ると、その蟻塚の上には人間の顔がのっていた。 「これはなんだろう?」とナラダは思った。「なぜ、蟻塚の上にヨギの顔があるのか?」 近づいてみると、そのヨギは目を閉じて座っていた。 「こんなところで、なにをしているのですか?」 ナラダが大声でたずねると、ヨギがゆっくりと目をあけた。 「おお、ナラダか!」とヨギがこたえた。「ここでおまえに会えるなんて、うれしいことだ」 「どうして蟻塚のなかに座っているのですか?」 「ここで瞑想しているうちに、蟻たちが巣をつくったのだよ。ところで、おまえはどこへ行くのかね?」 「天国へ行くところです」とナラダが言った。「神に会うためにね」 「おお、神に会うのか!」とヨギが叫んだ。「神に会ったら、私のためにひとつ聞いてきてくれないか?」 「もちろんです!」とナラダはこたえた。「なにを聞いてほしいのですか?」 「私が知りたいのは」とヨギが言った。「このさきどれほど瞑想しなければならないのか? そして、いつ私はこのサムサーラ(輪廻転生)から解放されるのか? それを聞いてほしいのだよ」 「よろこんで」とナラダは約束した。「神に聞いてきます」 そして、彼は森の道を進んでいった。 しばらくすると、ナラダの耳に歌声が聞こえてきた。歩きつづけると、森のなかでもひときわ大きな樹の下で、若いヨギが歌い踊っていた。 若いヨギは、踊りながらナラダのほうへやってきた。 「おお、ナラダ。こんなところであなたに会えるなんて思いもしなかった。ありがたいことだ。うれしいことだ。どこにいくのですか?」 「天国です」 「天国ですか!」と若いヨギが踊りながら言った。「それなら、ひとつ頼みごとをしてもいいでしょうか?」 「もちろんです」とナラダはこたえた。「なにをしてほしいのですか?」 「ナラダ」と若いヨギが言った。「私は、私の心が清浄になって神に会えるまでに、まだ何度も転生しなければならないのはわかっています。それはまったくオーケーだ。 私が知りたいのは、あと何回転生しなければならないかということです。それを神に聞いてもらえませんか?」 「わかりました」とナラダは彼に約束した。「神に聞いておきましょう」 そしてナラダは森を歩きつづけ、ついに天国にたどりついた。 天国にしばらく滞在したあと、彼はふたたび地球に戻ってきた。そのあと、地球のあちらこちらを旅してまわるうちに、あるときまた同じ森を通りすぎた。 森を歩いていると、蟻塚の真ん中で瞑想するヨギに出会った。 「おお、ナラダ!」とヨギが言った。「神に聞いてくれたかね?」 「ええ、聞きましたとも」 「そうか。それで、神はなんと言ったね?」 ヨギがせきこむようにたずねると、ナラダは静かにこたえた。 「あなたはあと四世にわたって瞑想したあと解放されるだろう、と神は言いましたよ」 「あと四回だって!?」とヨギが叫んだ。「なんということだ! こんなに瞑想して、瞑想して、蟻塚ができるほど瞑想してきたのに、それでもまだ十分じゃないと言う。あと四回もこれを繰り返すのか。絶望的だ!」 ヨギは声をだして泣きはじめた。 「たった四回の生ですよ」 ナラダは静かにそう言って、立ち去った。 しばらく森を歩いていると、彼は歌い踊る若いヨギに出会った。 「ナラダ!」と若いヨギが踊りながら言った。「神に聞いてくれましたか?」 「ええ」 「それで神はなんと言いました?」 「この大樹の葉が何枚あるか、数えてごらんなさい。その数と同じだけ生まれ変わったあと、あなたは清浄になって神に会うでしょう」 「おお、すばらしい!」と歌うヨギが叫んだ。「そんなに早く神に会えるとは思わなかった。ナラダ、私は幸せです。今でもこんなに幸せなのに、そのうえ神の言葉まで聞けるなんて! こんど神に会ったら、ありがとうと言っておいてください」 そう言って、若いヨギはますますエクスタティックに歌い踊った。 その瞬間、閃光(せんこう)がはしり、天から声がひびきわたった。 「我が子よ!」と声が言った。「おまえはこの瞬間、解放された!」 人がなにかをするとき、そこにはかならず動機というものがある。 瞑想をしようとするときですら、それは同じである。 あなたは、なぜ瞑想やセラピーなどのワークをしようとしたのだろうか? この「なぜ」という動機の核を見きわめていけば、そこにはかならず現実にたいする「満たされていない」という思いがあり、新しい行為をおこすことによって別な状態をつくりだし、「満たされたい」という思いがある。 最初の思いを判断(ジャッジ)と呼び、第二の思いを期待と呼ぶ。 通常、それらは天国へいたるプロセスだとみなされているが、実際は、それらがやってきたら、あなたは地獄行きのバスに乗ったようなものである。 なぜなら、比較があり、判断があるところには、かならず次に期待があり、競争があるからだ。 たとえば、「彼は部長で、私は課長だ」という比較と判断があると、次には「よし頑張って、彼を追いこしてやろう」という期待と競争心がおこる。 こういったものをマインドがもたらすときには、かならず<現在>の否定という形をもってやってくる。そして、<現在>を否定すると、あなたは唯一確実な足場を失って、蜃気楼の世界に迷いこんでいく。 あなたは<いま・ここ>にあるものを否定して、<いつか・どこか>にあるものを求めて、さまよい歩くことになる。 しかし、実際のところ、<いま>と<ここ>だけが実在するのだ。 <いつか>と<どこか>はマインドのなかに存在するだけにすぎない。 この物語りは、ある意味では不思議な物語りである。 通常、道をもとめて修行するときには、蟻塚のなかで瞑想苦行するヨギのほうが、楽しく歌ったり踊ったりするヨギよりも賞賛されるものだ。これほどまでに精進するということが、説得力をもって奨励されるものだ。 しかし、真理を語る賢者は、不思議なことにそうは言わない。 物語りは、一見ちゃらんぽらんに見える音楽家の若いヨギに、神の承認を与えている。 苦行するヨギは、目的の果実を手に入れるために自分を犠牲にしている。未来のために現在を犠牲にしている。そして、そこには計算がはたらいている。これだけやったのだから、これだけ手に入っていいはずだという思いがある。 これはビジネスの世界だ。 彼は瞑想しながら、これだけやっているのだから、もうすぐ神が迎えに来るはずだと思っている。そのために、すべてに耐えている。期待と苦しさで息切れしている。 マインドのなかは静けさとは正反対の<要求>と<文句>でグリグリしている。 外側からは、蟻塚のなかで瞑目して深い沈黙の境地にいるように見えても、内側では戦々兢々としてさわがしい。 あなたがどれほど姿勢よく座禅できても、優雅に歩くことができても、そういったことは目覚めることとはなんの関係もないのだ。 真理はアリストテレスの計算をはるかにこえている。 この若いヨギは、実際のところ、あと何回生まれてこようと、いまと同様に歌い踊ってその生を楽しむだろう。 いまこの瞬間を次の瞬間のために犠牲にすることがないのだから、思いが次の瞬間、次の生へと持ち越されることはない。 彼は<いま・ここ>を全面的に許し、受け入れ、楽しんでいる。 物語りでは、神の声がして「その瞬間、解放された」となっているが、それは物語りだからであって、実際には彼のマインドはすでに解放されているのである。 解放とは、今を犠牲にした苦行によって<いつか・どこか>におこるものではない。 それは、今をあるがままに許容できるマインドの成熟によって、<いま・ここ>に落ちるものだ。 「りんごは引力の法則によって落ちる」と学校では教える。 一方で、師は「りんごは成熟することによって樹から解放される」と教えるのだ。 前のページに戻る |
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