スパイスがいっぱい
インド薬膳カレー!
スパイス通販

サフラン・ロード、ガラム・マサラ サフラン・ロード、カルダモン サフラン・ロード、メース サフラン・ロード、ココナツパウダー サフラン・ロード、シナモン サフラン・ロード、ターメリック
サフラン・ロード、チリ サフラン・ロード、グリーン・ペッパー サフラン・ロード、ナツメグ サフラン・ロード、スターアニス サフラン・ロード、フェンネル サフラン・ロード、サフラン
アーユルヴェーダのハーブやスパイスをインドから日本へお送りしています!
サフラン・ロード
◆アーユルヴェーダ ◆おもしろインド ◆マクロビオティック ◆セイタン ◆更新情報 ◆リンク集




16−マストの上の鳥


ガンジス川に停泊する船のマストに、一羽の鳥がとまっていた。
ある朝、船は出航して、海にむかった。 マストの上の鳥がはっと我に返ったときには、船は岸を遠く離れ、陸地はどこにも見えなかった。
岸に帰ろうと思って、鳥は北へむかって飛びたった。 かなり遠くまで飛んでみたが、陸地は見つからなかった。鳥は疲れはて、どうすればよいか考えたあげく、船に戻って、マストの上にとまった。
十分に休養したあと、鳥はふたたび飛びたった。今度は東へむかった。 しかし、いくら飛んでも陸地は見つからなかった。どちらをむいても海が広がっていた。鳥は疲れはてて船まで戻り、ふたたびマストの上にとまった。
今度はもっと十分に休息をとってから、南へむかってみた。 そのあとには、西へむかってみた。 しかし、どの方向へ飛んでも、陸地にはたどりつかなかった。
最後に、鳥は船に戻って、マストの上にとまり、もはやそこを離れなかった。 鳥はそれ以上の努力をすることなく、ただマストの上に坐っていた。 もう落ち着きをなくしたり、心配したりすることもなかった。 鳥は不安と期待から解放されたがゆえに、それ以上の努力を放棄したのだ。
一週間後、船は目的地に着いた。


  ここでの海とは人生のことであり、船とは肉体のことである。 そして、鳥とは、肉体の最上部でぼんやりとしているマインドのことだ。
マインドはつねに過去か未来のどちらかを飛翔しているが、疲れるとかならず<いま・ここ>に戻ってくる。 そこには肉体があり、単純でストレートな真実がある。 しかし、マインドは十分に休養すると、かならずまた、彼方(かなた)に行こうとする。 なぜなら、マインドには不可能なものに挑戦したがるという傾向があるからだ。
マインドは猿のようなものであり、落ち着きがない。 つぎからつぎへと、いきあたりばったりに対象を変え、つねになにかを得ようとしている。しかも、不可能なものを得ようとしている。
単純で獲得容易なものには魅力をかんじない。 複雑でむずかしいものに挑戦して、成しとげることに、興奮とよろこびをおぼえる。 そして、満足するということがない。
「もっともっと」というのがマインドの言葉であり、これが人の<苦>の根本要因である。 しかし、だからといって、マインドを否定したり、消去しようとすれば、また別な落とし穴のなかにはいってしまう。
闘いからは真の平和はうまれない。 あるものをなくしてしまおうとすれば、当然そちら側からの反撃がおこる。だれだって消されてしまうとわかれば、必死に抵抗するものだ。 そうやって闘っているうちに、マインドは強靭(きょうじん)になっていく。 そして、闘いのなかで鍛えられたマインドは、つねに闘いを造りだしつづけざるをえなくなる。なぜなら、それがマインドを生き延びさせる最良の餌(えさ)だからだ。 マインドは闘って打ち勝つべき敵<オブジェクト>ではない。 それは理解しなければならない友<メカニズム>である。
世界には三種類の人々がいる。
第一の人々は、マインドと完全に自己同一化している。 彼らは、自分とマインドが別々なものだということを、想像したことすらない。自分の考えや感情が自分だと思っているから、その考えや感情にふりまわされる。 それはたえまない期待と不安と消耗の連続だ。
マインドのなかは気狂い病院だ。ちょっとなかを覗き込めば、だれにでもすぐわかる。あなたのマインドも例外ではない。 そこでは、脈絡のつかない思考が飛びかっている。 正反対の感情が入りみだれている。
たとえば、会社の上司と話しているとき、頭のなかではその上司を罵倒していたり、馬鹿にしていたりする。 恋人と食事しているとき、頭のなかではほかの男や女のことを考えていたりする。 とりとめのない想いのなかで、世界の帝王になってみたり、カクテルドレスを着て社交界の花になってみたりする。 あまりにも狂っているので、たいていの人はマインドの99パーセントを人目のつかないところに隠し、残りの1パーセントで社会とつじつまがあうようにやりくりしている。 だれもがそうしているのだ。 これはあやうい世界だから、いつかは「キレる」のがあたりまえだ。キレないで、いつまでも微笑をたたえているほうがおかしい。
第二の人々は、マインドを自己のコントロール下におこうとしている。 彼らは自分とマインドをそれぞれ独立したものとみなし、通常、禁欲的に、道徳的に、それをコントロールしようとする。 それはマインドと闘い、屈服させようとするやりかたであり、マインドとの果てしない消耗戦がつづく。マインドはずるく巧妙になっていく。微妙にしぶとくなっていく。 オニオンピーリング ヴィジョンのなかにあって、一歩一歩、段階的に変容していこうとするものは、すべてこの範疇にはいる。 肉体とマインドを鍛練によって自己のコントロール下におこうとするヨガ的な手法は、闘い、屈服させようとする戦士の道だ。 それは果てしない闘争の世界である。
第三の人々は、マインドを正しく理解しようとする人たちだ。 だが、マインドを正しく理解するためには、まずはじめに、マインドとはなにかを正しく知らなければならない。
それでは、マインドとはなんだろうか?
辞書をひくとマインドの項には、心、精神、思考、正気、記憶、意見、意向、気分などの語彙がならんでいる。 このような言葉がさししめす領域の機能を称して、マインドと言っているようだ。
別な見方をすれば、人間の機能のなかには、肉体の機能とマインドの機能があるとも言える。 栄養物の消化吸収、血液やホルモンの循環、呼吸、視覚聴覚など五感のはたらきなどを、私たちは肉体の機能と呼び、 そして、思考や記憶、感情や気分などのことをマインドの機能と呼ぶ。
禅では、心という言葉で、このマインドのすべてを包括している。したがって、無心と言うとき、それは心の動きと頭の動きの両方の不在を意味する。 しかし現代の日本語で「心」というと、頭のはたらきとは別なものとして印象づけられる可能性がある。そのため、ここではマインドという言葉をそのまま使って、頭と心の両方のはたらきを同時にさししめそうとしている。
しかし実際のところ、肉体とマインドは同じコインの裏表にすぎない。基本的には、ひとつの機能だ。人間という総合的なはたらきのうち、粗雑な部分を肉体と呼び、より精妙な部分をマインドと呼ぶ。 しかし裏のない表が存在せず、表のない裏が存在しないように、肉体とマインドは表裏一体をなしながら、ひとつのものとして機能しているのだ。
人間とは、肉体とマインドという機能をもった有機的統一体である。 では、マインドとはなんだろうか? ――それは精神作用のすべてである。 頭で考え、比較、判断して、評価、決定するはたらき。そして、心でうれしいとかんじたり、悲しいとかんじたり、愛しいと思ったり、憎いと思ったりするはたらき。それらのすべてがマインドだ。
このマインドというものは後天的なものである。だから、生まれたばかりの赤ん坊には存在しない。 赤ん坊には快不快という感覚はあっても、うれしいとか悲しいとか思う感情はまだ機能していない。
それは言ってみれば、まだなにもソフトの入っていないコンピューターのようなものだ。ハードはあるが、そこには中身が入っていない、まっさらなコンピューターだ。
しかし、それでは使うことができない。そこにソフトウエアを入れて、さまざまな情報が適切に処理できるようにしなければならない。 コンピューターの場合はセットアップをしてすぐに機能しはじめるが、人間の場合はもっと時間がかかる。 おこっているできごとを記憶するという機能は、通常三歳から四歳にかけてようやく働きはじめる。ママ、パパ、ウマウマからはじまって、言葉を使うようになるまで、辛抱強い訓練がくりかえされる。 それは途方もない教育、しつけであり、条件づけでもある。 それは必要悪であり、避けられないものだ。さもなければ、この肉体とマインドをもった生命体は、社会のなかで生きのびることができない。 だから、マインドは、「しつけ」と「教育」という訓練を受けることになる。 そうして、もともとは清浄で純粋なマインドが、生存競争(サバイバル)のなかで生き延びるために汚されていく。それは社会によるマインド・コントロールであり、心理学用語では「条件づけ」と呼ばれる。 しかし、本来はもともと清浄そのものである。
赤ん坊ほどかよわい存在はない反面、どんな悪人でもその純粋無垢な笑顔を見て、心を開かない者はない。 それは一輪のバラの花ににている。 それは無心の力(パワー)だ。 それは、さんさんと輝く太陽のようなあたたかさをもって、計算に満ちた冷たいマインドの氷をとかしてくれる。 年をとるにつれて、組み込まれるソフトウエアーの数も多くなり、より複雑になる。そして、そのうちに、このソフトウエアーが一人歩きしはじめ、主客転倒がおこる。ソフトウエアーがあなたを使いはじめる。 これはSF小説の話ではない。現実におこっている話である。
あなたがソフトウエアーを使うのであって、その逆であってはならない。 あなたがマインドを使うのであって、マインドにあなたを支配させてはならない。 マインドはあなたの主人ではない。マインドはあなたではない。 あなたがマインドの主人だ。 マインドは、あなたのために働く忠実な召し使いだという本来の位置に戻されなければならない。マインドにたいする自己同一化から解放されなければならない。
そうすれば、あなたはゆったりとマストの上に座って、休むことができる。 そうすれば、船は一週間後に目的地に到着するだろう。

  前のページに戻る

トップに戻る


アーユルヴェーダ
健康食

アーユルヴェーダ・インド

マクロビオティック
自然食