スパイスがいっぱい |
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15−ラクダをつなぐ師と弟子は、ラクダに乗って砂漠を旅した。 ある日、ようやく宿に着いたときには、すでに夜だった。彼らはくたくたに疲れはてていた。 ラクダをつなぐのは弟子の役目だった。が、彼はあまりにも疲れていたので、神に「ラクダの世話をお願いします」と祈って、そのまま眠ってしまった。 朝になると、ラクダはいなかった。 師が弟子にたずねた。 「ラクダはどこだ?」 「わかりません」と弟子がこたえた。「でも、ラクダのことは神に頼んでおきました。『神を信頼せよ』というあなたの教えを実践したのです」 弟子の言葉を聞いて、師が言った。 「神を信頼するのはよい。しかし、まずはじめにラクダをつながなければならない。神はおまえの手のほかに手をもっていないのだ」 これは短い物語りながら、きわめて興味深いポイントをしめしているといえる。 師はは存在の流れを信頼しながらも、自分のやるべき仕事はきちんとやらなければならないと言っている。 信頼と責任は別であると言っている。 あなたにはなすべきことがある。努力して、まずそれを成就しなければならない。 あなたは神にむかって一歩を踏み出さなければならない。 一日一日、瞑想や、祈りや、教典を学ぶことによって、自己を磨いていかなければならない。 あなたは、なにかをやらなければならない――これが出発点である。 あなたが道にはいって修行をはじめると、師は「徹底して、やりなさい」と言う。瞑想でも、祈りでも、全面的に、一生懸命、命がけでやるようにと言われる。 なぜなら、あなたには「やる」ということしかできないからだ。 そして、「徹底的に」というのが技法である。 真理を実現するという思いのもとに、徹底的になにかをやりぬくことが必要なのであって、その方法は基本的にはなんでもよい。 徹底的に道場で作務をしてもいいし、徹底的になまけてもいい。 徹底的に沈黙してもいいし、徹底的に叫びまくってもいい。 徹底的に人と交わってもいいし、徹底的に独りでいてもいい。 なにをやってもよいが、やることは「徹底的」でなければならない。 なぜなら、中途半端にやると、いつまでたっても変容がおこらないからだ。ぬるま湯のままでは、いつまでたっても料理は完成しない。 色とりどりの野菜がおいしい料理に変容するためには、湯は百度に沸騰しなければならない。徹底的にやることが、あなたのなかの原材料を料理する。 そうすると、あなたはさまざまな「体験」という味わいに舌づつみをうつことになる。 スパゲッティの好きな人が、最初のうちはさまざまに凝ったソースをつくってスパゲッティ料理を楽しむように、あなたもいろいろな驚くべき体験を次から次へと楽しむだろう。 そのためには、いろいろなことをやらなければならない。ボディワーク、エナジーワーク、ブレスワーク、エソテリックワーク、セラピーワーク、メディテーションなどなど、材料は色とりどりである。 あなたはその味わいに歓喜し、究極の味わいをもとめて突き進む。 しかし、どのスパゲッティ愛好家も、最後は、ソースよりスパゲッティそのものの味わいのほうに興味の焦点が移っていくものだ。 そして、あなたもまた同じように体験というソースより、そのソースのかかっている<あなた>そのものの味わいのほうに興味の焦点が移っていく。 そうなるまでに何ヶ月かかるか、何年かかるかは、あなたがどれほど「徹底的にやる」かにかかっている。 弟子にその味わいがわかるようになると、師はじょじょに「やってはいけない」と言いはじめる。 「やる者はどこにいる? それらの行為をする者はエゴである。それを落としなさい。なにかをしようとする者、なにかを得ようとする者、なにかをコントロールする者、それらを手放しなさい。 そうすれば、存在はあるがままで光り輝いている。あなたの本性は広大で無限だ」 ここで、受容と信頼というものが姿をあらわしてくる。 しかし、このときまでに、あなたは沈黙の味わいを知り、そのすばらしさを自分の体験として理解し、いつでもそこに戻ることができるという親密なつながりを得ていなければならない。 それまでのさまざまな体験から、師の言うことが「なるほど、そのとおりだ」と受け入れることができるようになり、自分の周囲にうずまいていた混乱の多くが静まって、 平常のときでもゆるやかな至福が存在していることがわかるようになっていなければならない。 「真理を実現するために、トータルに自分に課せられた仕事(ワーク)をする、それは私がやらなければならない責任である」という決意から、 「私がやっているとエゴが思っていただけで、実際にはすべてが自然にひとりでにおこっている」という洞察へ、あなたの理解が変化する。 それは「瞑想をする」という状態から「瞑想がある」という理解に移行していくプロセスでもある。 私たちは探究の過程で、「やらなければならない」という極と「あるがままに受け入れる」という極のあいだを何度も行ったり来たりしながら、じょじょに受容の奇跡というものに目覚めていく。 ものごとから「自分」というものをはずしてみると、マインドが描いたどんなシュミレーションをもはるかにしのぐ、思いがけない展開がはじまるということがわかってくる。 それはまさに芸術(アート)である。 しかし、だからといって、そう簡単にマインドを手放すことはできない。なぜなら、それをなくせば自分というものの存在証明が消えてしまうという恐怖があるからだ。 「そうなると私にはなんの価値もない。犬や豚と同じだ!」という頑固な思い込みがある。 それはマインドの次元である。 進化の歴史は、肉体を極限まで発達させた恐竜の全盛期から変化して、マインドを発展させるという次元に移行した。 魚にも数秒間えさのある場所を覚えているマインドの機能がある。ほ乳類は最初ねずみのようなものから始まったが、それはマインドの発展の歴史でもあった。 マインドは生存競争(サバイバル)を生き抜くために、あらゆる動物によって使われてきた。その結果、現時点では、マインドをもっとも精妙に発達させた人類が、この地球上の覇者として君臨している。 同じ構造が人間社会にも適用されている。 肉体の強靱さはそれほど要求されない。喧嘩のいちばん強い人が大統領になるということはない。肉体的な強さが制覇できるのは、せいぜい小さな集団のなかでしかない。 それ以上大きくなると、マインドの質のよさが要求されてくる。マインドをより発達させた者が、ピラミッドの頂点に登っていくのだ。あらゆるシステムがそのために用意されている。 したがって、マインドを捨てることはむずかしい。なぜなら、「マインドが人の存在を価値あるものにしているのだ。マインドがなくなったら、私は無にひとしい」という条件づけが骨の髄までしみこんでいるからだ。 だから、師はまず行為のなかから至福の一瞥を体験させようとする。あらゆるワークをつうじて、それぞれ異なったソースをとおして、唯一無二の真理の味わいがわかる地点まであなたをつれていこうとする。 体験とは、馬のまえにぶらさげられたニンジンのようなものである。それは馬を前に進ませることができる。 この物語りのように、「信頼するのはよいが、ラクダは自分の手でつながなければならない」と師が言うとしたら、彼の言葉は瞑想しはじめてまもない弟子に向けられているのだ。 昔、私にはしゃにむに瞑想しようとしていた時期が何度かある。 ある年、ヒマラヤのふもとの道場(アシュラム)で3ヶ月ほど過ごし、ラダックのゴンパで二ヶ月ほど過ごしたことがある。 毎日6時間以上瞑想することを自分に課して、ときにはだれとも話さず、ときには食事を部屋に差し入れてもらうだけでだれとも会わず、半年ほど瞑想していた。 その間、何度も何度も、すばらしい体験がやってきて、また去っていく。強烈な一瞥がおこっては、また消えていく。来たものは去っていき、起こったことは消えていく。 そして、私は絶望的になっていった。この手になにか確実なものをつかみたかったが、つかんだものはすべて消えていく。過去の師たちの言葉は学んだものの、それらは自分のものではない。 そんなとき、私はラメッシュという師に出会った。 ラメッシュはニサルガダッタ・マハラジの通訳をしていた人で、同時に銀行の支店長職もこなした実務家であったらしいが、そのころにはもはや退職しており、ボンベイの自宅でサットサンがおこなわれていた。 80歳にちかい老人だが、毎日探究者たちと元気に質疑応答をしていた。 彼は、「すべては神の意志によっておこる。<私>の意志というものは幻想以外のなにものでもない」という持論の持ち主だった。神というところは、宇宙、存在、本源などの言葉におきかえてもかまわない。 私は彼にはじめてあった日、この物語りを話して、 「すべては神の意志かもしれないが、その意志が動くためには、すくなくともラクダは自分の手でつながなければならないのではないか。 悟りがおこるためには、すくなくとも自分の側からは瞑想をするという行為が必要なのではないか。 『ものごとはおこるがままにおこっている』ということにたいする信頼もあり、それが99パーセントの割合いをしめるのは理解できるが、 それでも私の側から『瞑想する』という1パーセントの責任は果たさなければならないのではないだろうか?」 とたずねたことがある。 ラメッシュは少年のように目をきらきら輝かせながら、こんなことを言った。 「瞑想しようと瞑想しまいと、悟りがおこるときにはおこるものだ。それは神の意志によるのであって、瞑想によるのではない。 瞑想する人は瞑想するように神がプログラムしたのであり、それを自分の意志で瞑想していると思っているのは、そう思うようにプログラムされているからだ。 自動車に鍵をかけようと、鍵をかけわすれようと、盗まれるときには盗まれるものだ。とくに、ここはインドなのだから・・・。ラクダはつないでも、つながなくても、いなくなるときはいなくなる。 なにをしようと、なにをしまいと、おこることはおこるのだ。 それを『そうだ』と思おうと、『そうでない』と思おうと、それもまたあなたにたいする神の意志がそう思わせるのだ」 そこでは「ラクダをつながなかったからいなくなった」という論理が消去されて、ラクダをつながなかった、神に祈った、ラクダがいなくなった、それらはすべてあらかじめプログラムされたようにしておこった。 それは存在の意志である。あれやこれや言う必要はない。それをまるっとそのまま受け入れればよい、という受容の視点があきらかにされている。 そこにはエゴのはいる隙間が消し去られている。 前のページに戻る |
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