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14−風がふけば


アクバル帝の「九つの真珠」のなかで、もっとも賢人ぶりを発揮するのがビルバルである。
あるとき、宮廷の床に一本の線を描いて、アクバルが言った。
「この線を消さないで、短くできるか?」
人々が途方にくれるなか、ビルバルのばんになった。 ビルバルはアクバルが描いた線のとなりに、一本の長い線を描いた。 そのため、最初の線は短くなったように見えた。
「なるほど、触れられずして最初の線はみじかくなった」 と人々はうなずきあった。
また、あるとき、アクバルはとなりに座っていたビルバルの頬を、突然平手打ちにした。
アクバル帝はすこし風変わりな人だったが、王に理由を問いただすわけにはいかない。しかし、これほど多くの面前で平手打ちにされて、ただ黙っているわけにもいかなかった。 宮廷はシーンと静まりかえって、ビルバルの対応に注目した。 ビルバルは一瞬考えたあと、振りむきざまに彼のとなりにいた男の頬をおもいきり叩いた。 その男も驚いたが、もはやビルバルが道を開いたようなものだ。彼もすぐさまとなりの男を平手打ちにした。平手打ちはつぎつぎと順送りされていった。
それを見て、アクバルがたずねた。
「これはいったいどういうことなのだ?」
ビルバルがにっこり笑ってこたえた。
「明日の朝までにはわかります」
こうして、<自分より下位のものを突然平手打ちにする>というゲームがはじまり、その日一日、街中をかけめぐった。 街は一種の祭り状態になり、人々は興奮し、おおいにこのゲームを楽しんでいるようすだった。
その夜、アクバルが寝室に入ると、突然、女王が彼の頬を平手打ちにした。
「どうしたのだ!?」
驚いたアクバルがたずねると、女王が笑って、こたえた。
「街中がこのゲームでわきたっています。私もたたかれました。今度はあなたのばんです」
帝王といえども妻には弱い。 翌日、アクバルが言った。
「まったく不思議だ。私自身の平手打ちが、街中をひとめぐりして、また私のところに戻ってきた」


これは一休さんのとんち話にどこかにている。 もっとも一休さんのとんち話はすべて後世のつくりものらしいが、ビルバルのほうは実際にこのような多くの逸話をのこしている。 言葉のあやを使ったものもあるし、一見ばかげて見える行為のなかから真実をしめすというようなものもある。 ときには、彼はきわめて愚者にみえる。 それは、大衆があたりまえだと思っていることが、実は社会によって条件づけられた偽りの認識にすぎないからだが、ロバの背中にうしろむきに乗ってみたり、 ロバを洗って馬にしようとしたりする行為などは、彼に「道化」的な評価を与えたりもする。 しかし、この話を見てもわかるように、彼には深い叡智と臨機応変に対応する行動力があったことはたしかだ。
話のなかでは、アクバルに平手打ちされたビルバルが「一瞬考えた」とあるが、実際にはその一瞬はなにも考えていないのである。
マインドを使って考えを出すためには、一瞬では短かすぎる。 マインドという図書館に行って、資料をさがし、それを新しい状況にどうあてはめていくかを構築するにはもうすこし時間がかかる。それに、そこからでてくる行為は色あせた反復にすぎない。
新鮮な「サラダ」はマインドからはやってこない。 その一瞬、彼は「無心」にもどったのだ。 考えたのではなく、自分自身にもどり、マインドをゼロにしたのである。 この話を後世に記録した人は、瞑想というものを知らなかったにちがいない。外側から見ると、彼は考えたように見えたのだろう。
しかし、叡智はつねに無心からやってくる。 そのとき、彼は行為をこえている。彼がそれをしたわけではない。
アクバルにたたかれたビルバルが、一瞬ののち、となりの男を平手打ちにした行為は、そこにいた人々を驚かせたが、ビルバルもまた同じように驚いていたにちがいない。 そして、彼はそれを子供のように楽しんでいる。
力を加えると、同時に同じ量の力が自分に返ってくる――これは西洋が発見した<物理の法則>である。
風がふくと桶屋がもうかる――これは東洋が発見した<神秘の法則>である。
物理的な法則の観点から見ると、アクバルが平手打ちをくわせた瞬間、平手打ちをくわせた手は平手打ちをくらった頬によって同じ圧力でたたかれたことになる。 痛いと思う度合いは、どちらの部分がより繊細であるかにかかっている。心理的な要素がはいりこまないかぎり、事実はそこで完結している。 これは1+1は2になるというアリストテレスの数学である。が、実際の生はそのなかに多くの次元を同時にかかえこんでいるものだ。
あなたが瞑想を始めると、「風がふくと桶屋がもうかる」という法則があなたの感性によって知覚されはじめる。
風がふくと眼にゴミがはいり、眼科医に行って医者がもうかるだけではない。 ひとつひとつの小さな存在は、それぞれ周囲の小さな存在と微妙につながりあって、この宇宙を構成している。だから、あなたがちょっとした変化をみせると、全宇宙がそれに応じて変化するのだ。
私はあるとき二ヶ月間の瞑想リトリートに参加したことがあるが、毎日、瞑想ホールから外に出るたびに、木の緑、空の青さの変化に驚いたものだ。 沈黙が深まると、木々の緑も同じように深まっていく。 至福が深まると、空の青さも同じだけ深まっていく。 あまりのうつくしさに感動して、わけもなく涙があふれだしてくる。 それはすばらしく霊妙な世界である。
瞑想をはじめると、だれもがこのような体験をもつ。 それは粗雑で堅固なマインドの一歩外に存在する。 ちょうどエネルギー体を知覚するためには、肉体という枠にたいする固い思い込みをゆるめなければならないように、この神秘の法則を理解するためには、常識の世界にたいする固い思い込みをゆるめなければならない。 そうすると1+1が2になるというアリストテレスの数学でなく、1+1が11になり、111になるという神秘の数学があらわれてくる。 それは豊かで、不思議な数学である。
アリストテレスの数学だけで人生を生きる人は、けちで貪欲になる。 十から五を引くと、持ち分は五に減ってしまう。だから、豊かになるためにはあらゆる手をもちいてかきあつめ、けっして与えないようにしなければならない。 与えれば与えるほど、あなたの持ち分は少なくなっていくからだ。だから、あらゆる行為の背後には微妙な計算がたえず働いている。 それはたえまない不安と心配の世界でもある。それは神経を消耗させる。
神秘の数学は豊かさをもたらす新しい種類の数学である。 それは愛にもとずいている。 それは瞑想にもとずいている。 瞑想によってあなたのなかに静けさがうまれたなら、友人たちとわかちあうチャンスだ。 10人の瞑想者がともに瞑想しているとき、その静けさは百倍にも千倍にも深まる。 それは世界にすばらしいなにかを貢献することができる。
瞑想のなかから生まれる創造性は、けっして枯渇することがない。創造すれば創造するほど、より大きな資源にめぐまれていることを発見する。
マインドはため池のようなものだ――使えば枯渇する。
愛と瞑想は泉のようなものだ――使っても使っても、つきることなくわきだしてくる。
あなたの生は豊かになってくる。 あなたの感性は豊かになってくる。
そして、ここに第三の数学がある。 それは1+1がゼロになる数学だ。 1に10をたしても、1に100をたしても、ゼロになる。 この肉体とマインドにどんなことがおこっても、あなたの本性はいっさい触れられることなく、純粋性をそこなうことがない。 どんなものが足されても、どんなものが引かれても、このゼロはけっして変わることがない。
このゼロ地点は空だが、それは空虚ではない。それは不可視のなにかで満ちている。いきいきとした気づきの光で満ちている。
そうすると、風がふいて桶屋がもうかっても、雨がふって乞食が踊りだしても、あなたの本性は動くことなく、静かで、なにひとつおこらないという真理の世界があきらかにされる。
そうすると、平手打ちの旋風が街中をかけめぐっても、街はつねにシーンと静まりかえっているにちがいない。 そこにはさざ波ひとつたたない。

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