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12―光の宮殿


王は、後継者を選ばなければならなかった。 彼には三人の王子がいた。 どのようにして後継者を選んだらよいか助言をもとめるため、ある日、王は聖者を訪れた。
「後継者にはなにをもとめるのかね?」 と聖者がたずねた。
「賢く見ることのできる洞察力です」
数日後、王は三人の王子を宮殿に呼んで、言った。
「後継者を決めるときがきた。その方法は、おまえたちの宮殿をなにかでいっぱいにすることだ。なにでいっぱいにしてもよい。しかし、予算はコイン一枚、期間は一週間だ」
三人の王子は、それぞれ広大な宮殿に住んでいた。
第一王子は農家から収穫後のワラを買いあつめて、宮殿に運び込んだ。 しかし一週間後に王が訪れたときには、宮殿の三分の二しか埋まっていなかった。
王は不満げな様子で、第二王子の宮殿に向かった。 宮殿に近づくにつれて、いやな匂いがおそってきた。その匂いはますます強烈になり、宮殿に着くころには呼吸することさえむずかしいほどだった。 王子は町中のゴミを集めて、宮殿をゴミでいっぱいにしたのだ。 王は強烈な匂いに吐き気をもよおしながら、絶望的に首を横にふった。
王宮に戻ると、いちばん若い王子が言った。
「私の宮殿には今夜おいでください」
王は、彼が一週間のあいだ、あらゆる家具を運び出し、毎日宮殿内を掃除して、ぴかぴかにみがきこんでいるという噂を聞いていた。しかし、そのあとになにかが運び込まれた様子はなかった。
王は、夜になって、第三王子の宮殿をおとずれた。 王子は宮殿内に王を招きいれた。 宮殿にはだれもいなかった。 家具も、食器類も、あらゆるものが運び出されて、なにひとつ残ってなかった。
静まりかえった宮殿のなかを、二人は歩いた。 それぞれの部屋と廊下の隅々には、明かりがともされていた。それは神秘的なうつくしさをかもしだしていた。 王が言った。
「すばらしい。なんと神秘的なうつくしさだろう! しかし、宮殿のなかはからっぽではないか。私は、なにかでいっぱいにするようにと言ったはずだが・・・」
王子はにっこり笑って、言った。
「宮殿内の空間はすべて、明かりで照らしだされています。おわかりになりませんか? 宮殿は光で満ちているのです」
王子の顔を見ながら、王は満足そうにうなずいた。


では、真理とはなんだろうか――? あなたの本性とはなんだろうか――? 抽象的な表現ではなく、具体的な言葉で言うことはできないのだろうか?
「もちろん、それは不可能だ」とオーソドックスなアプローチをする正統派は言うだろう。それはそうだ。言葉は二元性の世界のなかでは使えるが、それを超えたところのものを表現することはできない。
しかし、それは正統派の意見である。 そして、正統派のいるところにはかならず異端が存在する。 ユダヤ教のなかにはハシディズム、イスラム教のなかにはスーフィズム、そして仏教のなかには禅という異端児があらわれた。 ここで正統派の法にしばられない、異端の法を紹介しよう。
経典を見るとこのように書いてある。
「真理は永遠である」
同じことを、法は不変である、と表現しているものもある。
ベンガル地方には、エクタラという一弦琴を奏でながら、歌い、旅する、バウルと呼ばれる人々がいる。彼らはこう歌う。
「なにもおこらなかった。 なにもおこっていない。 そして、なにもおこらないだろう。 あるものが、ただそこにあるだけ」
彼らは大地を床とし、大空を屋根として、インドを歩く。 そして、神は、つねに、永遠に、ここにある、と歌う。 変わることなく、<いま・ここ>に存在していると歌い、踊るのだ。
一方で、「般若心経」はこう言う。
「真理は増えたり、減ったりするものではない。 法は生まれたり、死んだりするものではない。 般若―叡智―は清らかであったり、汚れたりするものではない」
また、ウパニシャッドを開けば、こう書いてある。 「ブラフマンは一切であり、不動である。 どんな色をつけても染まることがない。 どんな鳥が飛んでも足跡を残さない」
これらの声明は、真理にはこのような質があるということを示している。 あなたの見つけたものが、それに合致しているかどうか確認できるようにつくられている。
経典というものは、ほんとうはわかったあとに読んで、はじめてその意味と味わいが理解できるのである。わからないうちは、いくら読んでも百パーセント見当違いなところを見て、とんでもないところに迷い込む。 しかし、わかったときには実に役に立つ。 あらゆる切り口から、あなたの認識したものが正しいものかどうか確かめてくれる。 これらの質をすべて満たすものを、あなたは見つけ出さなければならないのだ。
それはなんだろうか――? それはなにもむずかしいものではない。 それどころか、これ以上単純なものはないというほどに単純なものだ。 それを一言で表現することはできない。 しかし、ひとつの言葉で、いくつもあるクリスタルのひとつのカット面を表現することはできる。したがって、多くの方法論が生まれるのである。
そのなかのひとつに「気づき」というものがある。
瞑想には無数の技法がある。 そして、そのすべての技法に共通するものが気づきだ。 それは、実際にやってみなければわからない。瞑想をつづけていくうちに、じょじょにわかってくるものだ。ここでは経典は役に立たない。 あなたが「ガネーシュ」とはなにか知らなければ、ガネーシュという言葉は機能しない。同じように、気づきがなにかわからなければ、般若心経の言葉はわからない。 泳ぎを知らなければ、泳ぎについて書かれた本を読んでも意味をなさない。本を読むのではなく、あなたは川に飛び込んでみなければならない。水のなかでもがいているうちに、あるとき浮かぶコツを見つける。 そうしてはじめて、泳ぎというものが理解できる。 気づきもそのようにしてコツをつかんで、はっきりと知ることのできるなにかだ。
ふたたびブッダの「五頭立ての馬車」のたとえを使って、この気づきのメカニズムを説明してみよう。
あなたは、今、この本を見ている。 視覚という馬が機能して、この本が見えている。しかし視覚はこの本が見えているだけであって、「これは本だ」とは言わない。 これがコップではなく、本だ、と識別するのは、マインドというぎょしゃである。 そして、それと同時に、そのすべてを了解している、わかっているという気づきがある。 ここには三つの機能がオーバーラップしている。 それがわかるだろうか?
いま、この瞬間、実際に確かめてみてほしい。
1、視覚が働いて、見えている。
2、マインドが働いて、本だと意識している。
3、気づきが働いて、そのすべてを了解している。
これはひとつひとつ別々な機能である。
では、つぎに目を閉じてみてほしい。 そうすると、本は視覚から消えている。あなたはなにも見えないはずだ。 したがって、このときぎょしゃは本という焦点について機能していない。 ということは、1と2の働きは停止しているということになる。 しかし、目がとじていて、なにも見えない、ということはわかっているはずである。 ということは、1は目をあいているときにだけ機能し、2はマインドがそこに焦点をあわせたときにだけ機能し、3は1と2が機能していようと停止していようと働きつづけているということになる。
目という視覚の働きと気づきの関係は、スタンドの明かりと電流の関係に似ている。 スタンドのスイッチをオンにすると明かりがつく。オフにすると、明かりがきえる。 それはオンにして目をあけるとものが見えて、オフにして目をとじるとなにも見えないというのと同じだ。 けれども、オンにしようとオフにしようと、スタンドの背後に流れている電気はけっして途切れることなく、流れつづけている。 同じように、気づきは視覚とマインドの機能がオンになったり、オフになったりしても、それに左右されることなく、一日24時間、一年365日、けっして休むことなく、あなたが生きているあいだ、ただじっと気づいているのである。
わかるだろうか――? わからないときには、瞑想や気づきのエクササイズを実際にやってみる必要がある。 のどが渇いたときに「ビールが飲みたい、ビールが飲みたい!」と唱えても、ビールはやってこない。あなたは財布をもって、近くのコンビニまで買いに行くという行為をしなければならない。 頭のなかでとなえたり、心のなかで願うだけでは、いつまでたっても絵に描いた餅にすぎない。
しかし、いったんこれがわかれば、今度はそれを失うことが不可能になる。 じっと見ていると、ある瞬間、そこに一定の文字や絵が見えるというゲシュタルト・ピクチャーがあるが、それと同じことだ。 いったんこの「気づき」という文字がわかれば、あとはなぜ見えなかったのか考えられないほどに明白だ。 いったん気づきがわかれば、あとは失うことも見まちがうことも不可能だ。これがなぜわからなかったのか、あなたは不思議に思うだろう。 わからないうちは、長くて曲がりくねったあぜみちを歩くようなものだ。が、わかってみれば収穫したあとのの田んぼのなかを一直線に歩いてわたるようなものである。
そして、それがはっきりわかれば、そこに二種類の気づきがあることも判明する。 方便として用いる気づきと、本源としての気づきである。 方便としての気づきは瞑想の技法として用いられる。それは行ったり来たりする、得たり失ったりする。 しかし、本源はつねに気づいている。それは行ったり来たりすることなく、得たり失ったりすることがない。
本源はたえず観照している。 それは永遠に変わることがない。

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