スパイスがいっぱい |
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11― これでもない、これでもない若い娘の夫が、友人たちと一緒に妻の実家を訪れてきた。 娘とその友達が窓越しに彼らを見ていた。娘の友達は、だれが娘の夫なのかまだ知らなかった。彼女は、若者たちの一人をゆびさして、 「あの人があなたの夫なの?」 と聞いた。 「ちがうわ」 と言って、娘はにっこり微笑む。 彼女はまた別な若者をゆびさして、 「じゃあ、あの人が夫なの?」 と聞くと、娘はまた、 「ちがうわ」 と言って微笑む。 三人目の若者にも、四人目の若者にも、娘の答えは同じだった。 最後に、「あの人がそうなの?」と聞くと、彼女は「そうだ」とも「ちがう」とも言わずに、ただにっこりと微笑んだ。 それによって、娘の友達は、彼が娘の夫だということがわかった。 もうひとつの話をつづけよう。 赤ん坊のときに誘拐された息子を捜して、男は何年も旅をつづけていた。 彼はようやくの思いで盗賊たちの館をつきとめ、扉の前までやってきた。夜もふけて、あたりは真っ暗だった。家の奥のほうからは、盗賊たちの酒盛りの音が聞こえていた。 男は静かに扉をあけ、注意深く暗闇のなかを進んでいった。 椅子に触れた――これではない! 棚にふれた――これではない! テーブルにふれた――これではない! だが、じょじょに子供の寝息に近づいているようであった。彼はなおも進みつづけた。 ベッドの足にふれた――これでもない! 毛布にふれた――これでもない! 枕にふれた――これでもない! そして、ついに眠っている子供の身体にふれたとき、男はもはやなにも言わなかった。 よろこびが稲妻のように彼の全身をつらぬいた。 彼は子供を抱擁した。 これは、「ネティ、ネティ」と呼ばれる有名なヴェーダンタの技法について、語っている話である。 その技法とは、真理に到達するまで、識別できるものはすべて、否!、否!、と否定していくというものだ。 とにかく、なにが来ても「これではない!」と否定せよ、と言う。 否定して、否定して、否定するものがまったくなくなるまで、徹底して否定せよ、というのだ。 知覚できるものは、それがなんであれ否定しなければならない。 したがって、まず「視覚」によって得られる情報をすべて否定していく。 ここで条件をつけてはならない。 汚いごみためだから否定しようとか、美しい夕日だから残しておこうとか、選別してはならないのだ。 視覚の網にひっかかるものはなんであれ、無差別に否定していく。 私たちは、日常生活のなかで、なににもまして視覚にたよっている。 ある人の説によると、私たちがなにかを選択するとき、その80−90パーセントの情報は主に視覚にたよっているとさえいわれる。 正確な数字はわからないが、多くの情報が視覚をとおして入ってくるのは、だれもが承知している事実だ。 したがって、視覚から入ってくる情報を否定すれば、それだけで多くの情報がカットされることになる。 つぎに、「聴覚」からの情報を一から十まで否定していく。 工場の騒音も、川のせせらぎも、鳥のさえずりも、みな一様に「これでもない、これでもない」と否定するのである。 同じようにして、ほかの感覚器官−「臭覚」、「味覚」、「触覚」−から得られる情報を徹底的に否定する。 こうして、外側からの情報をすべて否定すると、今度は内側にある情報が浮かびあがってくる。 「感情」というものがあることに気づきはじめる。 悲しいとか、怒っているとか、好きだ、嫌いだ、などという情報が微妙に入り交じっているから、それらをかたっぱしから否定していく。 なぜなら、そういったものはすべて、あなた本来のものではないからだ。 それらを良いものも悪いものも、みなひっくるめて捨ててしまう。 ここでも選り好みをしてはならない。 良いものは残して、悪いものだけ捨てようとすると、あなたは落とし穴のなかに落ちたことになる。 人間は理性の動物だなどという言葉を聞くことがあるが、実際には、感情のほうが圧倒的に強いものだ。 感情のうねりが強まれば、理性などひとたまりもなく吹っ飛んでしまう。だから、いっそう注意しながら感情をしっかりと見守り、「これでもない、これでもない」と否定しつづけなければならない。 そうしていくうちに、「怒りが私のなかでおこっているが、私は怒りではない」、「悲しみが私のなかにあるが、私は悲しみではない」ということがわかってくる。 感情との自己同一化の絆に、じょじょにひびがはいってくる。 注意しながら感覚も感情も否定しつづけていると、今度は「思考」というものが雲のように浮かんでは形を変えながら消えていき、また別なものが浮かんでは消えていく、ということを繰り返していることに気づく。 だから、それもまた同じように否定していく。 あらゆる思考を無条件に捨てさっていく。 五感をとおして入ってくるものは、あなたの外側にある情報である。 あなたの外側にあるものは、あなたではない。 これは単純な事実である。 同じように、あなたの内側にあるものもまた、あなたではない。 なぜなら、それらは「あなた」の内側にあるものだからだ。 それらは、あなたではない。 それなら、そのような感覚のやどる肉体はどうだろうか? 「あなたの手」とか、「あなたの頭」とかいうが、それはあなたの手であって、あなたではない。それはあなたの頭であって、あなたではない。 手をさして、「これは私です」と言う人はいないだろう。だれもが、「これは私の手です」と言う。 「あなたの**」と言えるものはすべて、あなたではないのだ。 このポイントをもっともっと深く究明してみなければならない。 そんなことを意識的に言っている人はいないだろうが、奥深いところではみんな知っているのである。 それにもかかわらず、意識の表面部分では、いつのまにか、肉体と自分との境を見失っている。いつのまにか、肉体が自分だと思って、肉体の快楽を追い求めている。 よーく検討してみる必要がある。 これを読んでいる人のなかには、手術で胃の三分の一を取ってしまった人とか、事故で手や足を切ってしまったという人もいるだろう。 彼らはみずからの体験から、肉体の一部が失われても、あなたにはなんの影響も及ぼさない、ということを知っている。 あなたの機能の一部が失われるだけで、あなたはまったく変わらない。 反対に、骨折した骨のつなぎとして体のなかに金属がはいっていたり、心臓にペースメーカーがはいっていたりしているとしても、やはりあなたは変わらない。 肉体は増えたり、減ったりする。 年齢とともに大きくなったり、小さくなったりする。 しかし、よく見ていけば、あなたはそのような肉体の増減、快不快などとはまったく別な存在であることがわかる。 あなたは増えたり減ったりするようなものではない。 たとえば、ここに40歳の人がいる。彼は40歳という肉体と年齢を今もっている。10歳のときには体は小さかった。20歳のときには、体はみずみずしかった。体は変化している。 だが、よく見ていけば、彼のなかに、5歳のときも、10歳のときも、20歳のときも、40歳の今も、変わらずにあるものがひとつある。 それがあなただ。 それが真理だ。 それを見つけなければならない。 肉体は刻一刻変化している。 マインドは一瞬たりともとどまることがない。 だが、あなたはけっして変化しないなにかだ。 この動きつづけるふたつのものに、自分の土台を築こうとすると、あなたはサムサーラという輪廻の世界に生きることになる。 あなたの人生は、砂の上につくられた城のようなものになる。 なぜなら、土台が動きつづけるからだ。 あなたは、けっして動かないものを土台として見つけなければならない。 肉体やマインドにたいする自己同一化から解放されて、永遠の土台石の上にあなたの城を築かなければならない。 ブッダは、これを五頭立ての馬車にたとえている。 五感が馬であり、肉体が馬車であり、ぎょしゃがマインドである。 その目的は、馬車のなかにいる主人を無事に送りとどけることだ。 五頭の馬とは、視覚、聴覚、味覚、臭覚、触覚である。 ときには事故や老齢のために、馬は使いものにならなくなることがある。 ときには聴覚や臭覚という馬が死んでしまうこともある。 そうすると、馬車はのこりの3頭でひっぱらなくてはならない。 機能はずいぶん衰えるだろう。馬車のあゆみは遅くなるだろう。 しかし、馬車のなかの主人に変化はない。 ぎょしゃはそれぞれの馬を叱咤激励し、ちゃんと目的地に着くかどうか心配したりするかもしれない。なぜなら、それがマインドの仕事であるからだ。 しかし、主人は馬車が早く走ろうと、ゆっくり歩こうと、まったく頓着することがない。馬が老齢化によって能力が低下しようと、馬車が古くなって色がはげおちてこようと、主人は変わることなく、なんの影響も受けることがない。 なぜなら、目的地というのは馬車にとって必要なだけで、実際のところ、主人はどこへも行く必要がないからだ。そして、それを主人は知っている。 しかし、あなたは馬車が主人だと思っている。 だから、馬車の機能が低下していくにつれて、あたかもあなた自身の価値が低下していくような錯覚におちいって、本来の覇気をうしなう。 ぎょしゃが主人だ、と多くの人は思っている。 そうすると、彼らは馬車がスムーズに動いているときにはよろこび、故障すると悩む。うまくコントロールできるときには至福をかんじ、できないときには惨めに思う。 自分ではないものを自分だと思っているうちは、混乱と混沌がつづく。 自己と自己でないものを同一化しているうちは、不安のなかに落ちつづけるだろう。安心のなかに落ち着くことはけっしてない。 あなたが感知できるあらゆる情報を断固として「否!」、「否!」と否定しつづけなければならない。 最後に、否定できる情報がなにもなくなったとき、それはあなたの「永遠の恋人」にたどりついたときだ。 あなたは、無言で、ただにっこり微笑むだろう。 前のページに戻る |
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