スパイスがいっぱい |
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10−ライオンの咆哮(ほうこう)羊飼いは、毎日羊の群れをつれて、森や草原を歩きまわっていた。 あるとき、川辺で羊たちに水を飲ませていると、薮のかげから小さな動物の鳴き声が聞こえてきた。 不審に思って声のするほうに行ってみると、一頭のライオンが死んで、横たわっていた。そして、そのそばに、生後まもないライオンの子供が、死んだ母親にすがりつくようにして泣いていた。 羊飼いはかわいそうだと思って、ライオンの子をつれてかえり、それを羊の群れのなかにいれて育てた。 ライオンの子は、ほかの羊たちと同じように育てられた。 そして、彼はミルクを与える羊を母親だと思い、一緒にミルクを飲む羊を兄弟だと思いながら成長した。 大きくなるにつれ、ライオンの子は、自分がほかの羊たちと少しちがっていることに気づきはじめた。 たてがみのところにふさふさした体毛はある。だが、ほかの羊のように全身をおおっているわけではない。声も低音で、すこし奇妙だ。それになにより、草を食べてもちっともおいしいと思わない。 羊は一日中草を食べて満足しているが、ライオンはそうではなかった。 まわりの羊たちは、彼を<病気の羊>という目で見ていた。 ある朝、羊たちはいつものように草原に散らばって、草を食べていた。 そこに一頭の大きなライオンがやってきた。 薮に隠れて、羊たちに近づきながら、群れに襲いかかる瞬間を確かめるように、羊の群れを眺めた。 大きなライオンは、そこに信じがたい光景を見いだした。 羊の群れのなかに一頭の若いライオンがいるのだ。 まわりの羊たちはその若いライオンを怖がるわけでもなく、一緒に草を食べながらたわむれている。 大きなライオンは自分の目を疑った。 こんな光景は今まで見たこともなかったし、聞いたこともなかった。 大きなライオンは藪から飛び出した。 「ライオンだ!」 羊たちは四方八方に逃げはじめた。自分を羊だと思っている若いライオンも、みなと同じように必死に逃げた。 大きなライオンは羊たちには目もくれず、若いライオンにむかって一直線に走った。 若いライオンも全速力で走ったが、大きなライオンの足にはかなわなかった。 彼はつかまってしまった。 恐怖で全身をおののかせながら、若いライオンは泣いて許しをこいはいじめた。 「おー、どうか私を食べないでください。お願いですから、みんなのところへ返してください。メエー、メエー」 自分を羊だと思っている若いライオンは、必死に嘆願した。 大きなライオンは、若いライオンを押さえつけながら言った。 「なにをバカなことを言ってるんだ! おまえは自分を羊だと思っているようだが、ほんとうはライオンなのだぞ」 若いライオンは意味がわからないという顔つきで、言った。 「私は羊です。生まれたときから羊の母親のミルクを飲み、兄弟たちと草を食べながら生きてきました」 言葉で説明しても無理だと思った大きなライオンは、若いライオンを近くの沼までひきずっていった。 「目を開いてよく見ろ! 私の姿とおまえの姿を見れば、 同じだということがわかるだろう」 若いライオンは、水にうつったふたつの動物の姿を見た。 それは驚きだった。 水面にうつっている自分の姿はほんの少し小さいというだけで、大きなライオンの姿とまったく同じものだったからだ。 若いライオンは、その瞬間、すべてを理解した。 長いあいだ、自分でもなにかがおかしいと思っていた。 いくら羊たちのようにふるまっていても、そこにはぴったりおさまりきれないもどかしさ、苦しさ、葛藤があった。 一陣の風が吹き、彼ははっきりと自分自身を認識した。 すると、内側から大きな力が湧きおこってきた。そして、それは耐えがたいほどの強烈さで爆発した。 若いライオンは全身をブルルッとふるわせると同時に、「ガオー!」というライオンの雄叫(おたけび)びをあげた。 それは、本来の自分自身を知った歓喜の雄叫びだった。 真実の姿は、ときに寓話という形によって、なによりも明せきに描写されることがある。この物語りはまさにその真髄をつくもので、最高傑作のひとつであろう。 ライオンの子供は、羊の社会のなかで育てられた。自分の本性がライオンであることを知らず、むしろ羊のなかの一員たろうと努力している。 だが、なにかがフィットしない。 なにかがすっきりしない。 成長するにつれ、ほかの羊とのちがいがはっきりしてくる。 鳴き声のトーンがちがう。 たてがみの体毛はふさふさしているが、ほかの羊のように全身が長い体毛でおおわれているわけではない。 比較すればするほど、自分は「醜い羊の子」だと思う。 だが、どうしようもない。 自分が羊だと思っているうちは、あれこれ努力してみる。そして、シシュフォスの神話のように不毛な努力のなかで、疲れ果てていくのだ。 これはライオンと羊のたとえを使いながら、人間の本質と現実のあいだに形成されるゆがみの構造を描写している。 寓話のなかではライオンは一頭だけだが、実際には羊はすべてライオンである。ライオンの群れがすべて自分は羊だと思い込んで、メエーと鳴き、草を食べている姿を思い浮かべてもらいたい。 それは、実際、奇妙な光景にちがいない。 しかし、それが人間におこっている現実でもある。 さきに、「オニオン・ピーリング・ヴィジョン」という変容のプロセスを紹介した。 それは基本的に、今のあなたはさなぎであり、内的変容をとおして成長していくことによって、ある日「さなぎ」から脱皮して「蝶」になるという視点だ。 そのためには、瞑想、奉仕、祈り、ハタヨガ的な肉体と呼吸の修練などのワークが必要だ。 あなたはそのワークをとおして、より精妙で崇高な境地を達成していく。 この視点にたいして、この寓話はもうひとつ別な視点を提示している。 自分を羊だと思い、羊の社会に順応しようとしているライオンが、その本来の自分というものを得るためには、なにも特別なものを必要としない。たんに目覚めることが必要なだけだ。 夢のなかで苦しい思いをしているとき、それを解決する最良の方法は夢からさめることである。一瞬にして、「あ、なんだ、夢だったのか!」と我にかえる。 真実を、直接あるがままに、<見る>ことが必要なのだ。 若いライオンは、水面にうつった自分の姿が大きなライオンと同じものであるのを見た瞬間、自分本来の姿を悟った。 そこに時間は介在しない。 そこにプロセスは介在しない。 それがはっきりわかった瞬間、「ガオー!」というライオン本来の雄叫びが自然にわきおこった。 すべての疑いが氷解し、「これが私だ!」という了解が全身をつきぬけた。 そのとき、ライオンだと自覚したライオン本来の咆哮(ほうこう)が、青空にひびきわたった。 その瞬間、なにがおこったのだろうか? その一瞬前まで、ライオンは羊だった。 その瞬間から、ライオンはライオンである。 この十分の一秒間ほどの<一瞬>あいだに、さなぎは蝶になったのだろうか? 否!、である。 この一瞬のあいだに、ライオンはなにか特別な成長をはたしたのだろうか? 否!、である。 このように短い時間のなかで体験できるものなどなにもない。 体験するためには時間が必要である。 したがって、その瞬間にはなにもおこらなかった。が、一瞬にして、「わかった!」のである。 なにかに「なる」ためには時間がかかる。 だが、「わかる」ときには時間はかからない。 メガネをかけていながら、メガネをさがしまわっている人にとって、「メガネはもうかけているじゃないか」という一言だけで十分だ。 彼は、「なんだ、かけていたのか」と言って、笑うだろう。そのとき、彼は新しいなにかを達成したわけではない。 「あっ!」とわかるときには、時間はかからない。 彼はメガネを得るためになにかをする必要はない。なぜなら、彼はそれをすでにもっているからだ。ただ、それに気づくことが必要なだけだ。 あなたはすでにライオンである。 あなたはすでに、あなたが求めている<よろこび>そのものである。 あなたはすでに<自由>なのだ。 これは、「ガチョウは外だ!」と叫ぶ禅の師の教えと同じである。 あなたは深い海底にもぐって、真珠をさがしまわっている。 だが、真珠はあなたが持っているのだ。 あなたが持っている、というのもほんとうは正しくない。 なぜなら、そのとき<あなた>と<真珠>は別々なものになるからだ。 正しくは、「あなたが真珠そのものだ」と言わなければならない。 玉ねぎの皮を一枚一枚 むいていった結果として、真珠があらわれるのではない。 玉ねぎをむいているあなたが真珠なのだ。 あなたは、それを一瞬にして、<見る>必要がある。 一瞬にして、<知る>必要がある。 真珠は、今、この瞬間、完璧な姿でここにある。 あなたはそれを知らなければならない。 玉ねぎの皮をむくのは、時をかせぐ方便にすぎない。 あなたが真珠そのものだと宣言するこの視点のことを、「パール・ビジョン」という。 ここには成しとげるものはなにもない。 あなたはすでに<自由>なのだ。 あなたの本性をはっきり<見た>とき、あなたはライオン本来の雄叫びをあげるだろう。それを獅子孔(ししく)というのだ。 それは真の祝祭であり、つきせぬ光明(生)のはじまりでもある。 前のページに戻る |
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